御津町商工会のHPより引用します
御津神社より
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御祭神は伊勢より船にて渡来せられ、船の着いたところを船津といい、お供の神として磯宮かじとり大神、船津大神、お舳玉大神が隋従せられました。
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御舳玉神社より
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上陸なされた所に船津社がありこれは今の船津橋附近ですが、磯宮社は御津北部保育園の北隣にその旧跡を存じております。この2社は後に移されて御津神社境内になりますが御舳玉神社は茂松村の氏神様として現在地に御鎮座となりました。創立はほぼ御津神社と同じころと思われます。
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これから想像すると、磯宮かじとり大神、船津大神は、サホヒコの息子、
つまり、事代主神、建御名方神となり、お舳玉大神は、サタヒコと考えられます。
サタヒコも同時に船で、来たように書かれていますけど、もしそうならば、合流した場所が話として残っている可能性がありますけど、それは今のところ確認できません。
さらに、そうならば到着した場所はこの御津ではなく、豊川河口付近が適当な場所になると推測します
それから、御舳玉神社の御祭神は住吉大神ですけど、これは、後になってのことで、最初は
「御舳玉大明神」らしいです。そしてこの神社は場所が別です。
「舳玉」とは何だろう? 「舳」「へ」と読むそうです。船の前部のこと。
「玉」は、石の美しく貴いもの。すぐれているものなどですけど、思い当たることは
スクナヒコナ(猿田彦の別名)の乗る船は、「天之羅摩船」(あめのかがみのふね)と言います。
いろいろな説がありますけど、この船には「かがみ」のような艶のある木が使われていたという話があります。
久しぶりの妄想ですけど、この光り輝く木で出来た船に乗ってきた神様と言う意味かもしれません。
何の木だったっけ? ちょっと待ってくださいよ・・・・探したけど分からない・・・
後ほど・・・
住吉大神は、サタヒコが御津神社についたときには、まだ、生まれていません。
以上の理由から、御舳玉神社は、サタヒコのとどまった場所ではありますが、神社になったのは、
サタヒコが、猿投神社にやって来た頃の晩年と推測します。
本人が、この場所に再びやってきてそこに、この「御舳玉神社」を建てたのかもしれませんね。。。
御津神社より
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御祭神は伊勢より船にて渡来せられ、船の着いたところを船津といい、お供の神として磯宮かじとり大神、船津大神、お舳玉大神が隋従せられました。
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御舳玉神社より
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上陸なされた所に船津社がありこれは今の船津橋附近ですが、磯宮社は御津北部保育園の北隣にその旧跡を存じております。この2社は後に移されて御津神社境内になりますが御舳玉神社は茂松村の氏神様として現在地に御鎮座となりました。創立はほぼ御津神社と同じころと思われます。
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これから想像すると、磯宮かじとり大神、船津大神は、サホヒコの息子、
つまり、事代主神、建御名方神となり、お舳玉大神は、サタヒコと考えられます。
サタヒコも同時に船で、来たように書かれていますけど、もしそうならば、合流した場所が話として残っている可能性がありますけど、それは今のところ確認できません。
さらに、そうならば到着した場所はこの御津ではなく、豊川河口付近が適当な場所になると推測します
それから、御舳玉神社の御祭神は住吉大神ですけど、これは、後になってのことで、最初は
「御舳玉大明神」らしいです。そしてこの神社は場所が別です。
「舳玉」とは何だろう? 「舳」「へ」と読むそうです。船の前部のこと。
「玉」は、石の美しく貴いもの。すぐれているものなどですけど、思い当たることは
スクナヒコナ(猿田彦の別名)の乗る船は、「天之羅摩船」(あめのかがみのふね)と言います。
いろいろな説がありますけど、この船には「かがみ」のような艶のある木が使われていたという話があります。
久しぶりの妄想ですけど、この光り輝く木で出来た船に乗ってきた神様と言う意味かもしれません。
何の木だったっけ? ちょっと待ってくださいよ・・・・探したけど分からない・・・
後ほど・・・
住吉大神は、サタヒコが御津神社についたときには、まだ、生まれていません。
以上の理由から、御舳玉神社は、サタヒコのとどまった場所ではありますが、神社になったのは、
サタヒコが、猿投神社にやって来た頃の晩年と推測します。
本人が、この場所に再びやってきてそこに、この「御舳玉神社」を建てたのかもしれませんね。。。