たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

倭姫命伊勢に行く その 16

2021-11-04 13:36:19 | レイライン
まだまだ、倭姫について書きたいことはたくさんあります。

でも、それ以上にわからないこともあるので、まとめられません・・・

例えば、八尺瓊勾玉はサタヒコといっしょに動いているようですけど、外宮の御食殿にもあるのでしょうか?

倭姫が、祀っていたのですから当然そこにもあったはずです。

そうすると、複数あるのでしょうか?

天叢雲剣は、倭姫がヤマトタケルに与えてその後、熱田神宮に収められますけど

どのようにして、伊勢に行ったのでしょうか?

出雲にある剣は?

久具都比賣神社に行った時の状況は?

伊雜宮近くにある、「倭姫命の旧跡地」とは?

倭姫は、奈良へは帰ったことがあるのでしょうか?

などなど、いっぱいあります。

これまで書いた倭姫の足跡は、古事記、日本書紀に書いてあることとは全く違うので

驚いていらっしゃる人が多いのではないでしょうか。

自分でも驚いたのは、天照大神が、サホヒコ つまり「伊勢津彦」だったことですね。

まさかと思いましたよ。でも、そう考えると、なぜサタヒコが鏡を伊勢に持って行ったのか、

伊勢のレイラインの意味はどうしてか。外宮の意味と倭姫の御陵のレイラインなどなど

すべて、結びつきます。

古事記、日本書紀の書かれる前に、何かがあって、彦坐王から後の歴史を改ざんする必要があったのでしょう。

仁徳天皇陵にレイラインがあることから、それ以降と推測します。

さらに、神功皇后の子である応神天皇は、 仲哀天皇との子ではないらしいのですが、

そのことが、分かっていないとも考えられます。



レイラインを調べることにより、歴史の改ざんが明らかになるとは思いもかけませんでしたけど

そのラインの測量者には敬意を表します。

「日の出日の入りマップ」を作成してくださいました方にも、お礼申し上げます。

このアプリが無ければ、こんなに簡単にラインを見つけることは不可能だったと思います。

さて、なんか中途半端ですけど、倭姫命伊勢に行くシリーズはこれで終了します。

まだまだ、サタヒコについては調べてないことがあります。

もう一度、生まれ故郷の美濃から調べ直したいと思います。

その都度レイラインもご紹介します。




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