サタヒコが生まれ育った「方々津神社」付近からは、当時の海までいくらか距離があると思います。
長良川を船で下るには問題はありませんけど、遡ることはできません。
ですから、海に面したどこかの河口付近に、船を係留するための港があると思います。
そこから、徒歩で方々津神社方面に移動したと考えるのが適当かと思います。
そうすると、長良川を渡らない右岸にあるのでは。
当時の地形を探ってみましょうか。いつものように海面を上げてみます。
今回は、河口付近なので少し高めの設定、6m上昇の地図を見てみましょう。
「結神社(結大明神)」と書いたところが、その条件に合う場所かと思うのです。
こちらから引用させていただきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「結神社」は明治37年までは現在の西方280メートルの位置に位置しており、「結大明神」と呼ばれる大きな神社でした。
元の境内は今の3倍の敷地があったと言われており、参道は美濃路(昔の鎌倉街道)に通じていました。江戸時代は参勤交代や歌人、商人や歴史人が通行した記録もたくさん残っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
右上の駐車場と書いてある所は、標高6.3m。
現在の結神社は、8.9m。
元の場所は、現在、川との境ぐらいなので少し低いですけど、少し東では9.4m。
幅が300mほどの半島のような地形と、想像できます。
そういえば、猿投神社から見つかったと言われる古地図がありましたね。
それにわかっている場所を書き込んでみましょうか
どうでしょう?
長良川を船で下るには問題はありませんけど、遡ることはできません。
ですから、海に面したどこかの河口付近に、船を係留するための港があると思います。
そこから、徒歩で方々津神社方面に移動したと考えるのが適当かと思います。
そうすると、長良川を渡らない右岸にあるのでは。
当時の地形を探ってみましょうか。いつものように海面を上げてみます。
今回は、河口付近なので少し高めの設定、6m上昇の地図を見てみましょう。
「結神社(結大明神)」と書いたところが、その条件に合う場所かと思うのです。
こちらから引用させていただきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「結神社」は明治37年までは現在の西方280メートルの位置に位置しており、「結大明神」と呼ばれる大きな神社でした。
元の境内は今の3倍の敷地があったと言われており、参道は美濃路(昔の鎌倉街道)に通じていました。江戸時代は参勤交代や歌人、商人や歴史人が通行した記録もたくさん残っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
右上の駐車場と書いてある所は、標高6.3m。
現在の結神社は、8.9m。
元の場所は、現在、川との境ぐらいなので少し低いですけど、少し東では9.4m。
幅が300mほどの半島のような地形と、想像できます。
そういえば、猿投神社から見つかったと言われる古地図がありましたね。
それにわかっている場所を書き込んでみましょうか
どうでしょう?