暘州通信

日本の山車

玉依姫 様 (五三四)

2013年08月17日 | 日本の山車
玉依姫 様 (五三四)
 これは仮説です。
 【蘇我氏】は、房総の日氏・物部氏に従って数々の功績をたて、厚く用いられたと考えます、一方で、相当の蓄財もなしたと推定され、やがて、この眷属から大和入りする氏族が生まれ、大和國(奈良県)大三輪の長髄氏・物部氏と結んだと考えられます。桜井市の【纏向遺跡】を【箸墓】と結びつけて、【邪馬臺國の遺蹟か?】などと報じられることがありますが、日氏・物部氏・蘇我氏の居住地だった可能性のほうが高いのではないでしょうか? 
 大和には、紀州の日隈氏、葛城氏、さらにはカモ氏が入植したと考えられます。カモ氏は有数の氏族として日本各地にその繁栄の後が見られますが、出自不明の氏族といえます。綿津見しのこうせいいんであったことはほぼ間違いないでしょう。また、百濟系氏族であったとする説も有力のようです。

玉依姫 様 (五三三)

2013年08月17日 | 日本の山車
玉依姫 様 (五三三)
 これは仮説です。
 【百濟】の滅亡が、西暦六六〇年。【高句麗】の滅亡は、西暦六六八年。と相次いで二國家が滅亡しました。このことは日本にも直接的な影響がありましたが、とりわけ、国難を避けて日本へ渡来した古韓人(古朝鮮人)が多かったことが知られますが、その韓半島(朝鮮半島)からの渡来人とは、倭人、韓系倭人、韓人らだったと推定されますが多くは倭人、あるいは韓人と混血した韓系倭人のいわば、里帰りの【還来氏族】が多かったと推察されます。

玉依姫 様 (五三二)

2013年08月17日 | 日本の山車
玉依姫 様 (五三二)
 これは仮説です。
 韓半島(朝鮮半島)に定住した古代の民族は、日本と同じように、西欧、北欧、西域、ヒマラヤ、ウイグル、スキタイ、キルギス、チベット、モンゴル、西夏、女真、チベット、中国、台湾東南アジアその他の諸国の影響を受けた、多民族が融和していると推定されますが、紀元前には、その生活習慣の違いなどから、集約されるまでには幾多の紛争が続き、興亡が繰り返されています。紀元二世紀ころの韓半島(朝鮮半島)は、【高句麗】、【百濟】、【新羅の三國】になりますが、これも【高句麗】、【百濟】は相次いで滅亡し、【統一新羅】となりますがこれも李氏の【朝鮮國家】となりました。
*注
これらの記述は過去の歴史を述べているもので、【政治的意図】はまったくありません。誤解なきようお願いします。

玉依姫 様 (五三一)

2013年08月17日 | 日本の山車
玉依姫 様 (五三一)
 これは仮説です。
 【日本】という【國號(国号)】が史書に出てくるのは、以前にも述べていますが。五世紀の『宋書』が最初ではないかと推察します。しかしその範囲は、現在の北海道から、沖縄にいたる【日本】の範囲より著しく狭隘な、ほぼ【九州一円】を指しており、それは【太陽神を祀る日氏の本拠】の意味合いが強かったようです。
 四国、中国(山陽、山陰)、近畿、東海、北陸、関東、東北などは【大倭】だったでしょう。

玉依姫 様 (五三〇)

2013年08月17日 | 日本の山車
玉依姫 様 (五三〇)
 これは仮説です。
 紀元前から、四世紀ころまでは、まだ【日本】と言う國は存在せず、小國が集まった小國家の集合体だったと考えられます。韓半島(朝鮮半島)もまたおなじような状態で、小國家同士が鎬(しのぎ)を削る状況だったと考えられます。四世紀ころまでは、九州を経て韓半島(朝鮮半島)中国東部にかけて、縄文人にはじまる日氏が進出し、韓半島(朝鮮半島)南部から中部、そして一部が、女真眞(旧満州)。中国東部の山東半島から、遼東のあたりまで広がっていたと推察されます。これが、【倭】でしょう。換言すると日本が成立する以前の【古代日本】は、現在の日本西南部、韓半島(朝鮮半島)、中国東部などに住み別けていたと考えられます。ここでの意思の疎通は倭語(原始日本語)だったでしょう。