00212 郡山秋祭
福島県郡山市清水台
安積国造神社
□祭は九月下旬。
八幡囃子山車祭ともいい山車十七臺が曳かれる。
□汎論
山車が曳かれるようになったのは元文三年(一七三八)からだという。
安積国造神社について記述するとき、安積艮斎(あさかごんさい)の遺徳をしのばずにはいられない。
安積艮斎は、寛政三年(一七九一)安積国造神社第五十五代宮司安藤親重の三男に生まれた。名を重信、また信といい、字は思順(しじゅん)、通称を祐助といった、艮斎は号である。
十七歳のよき江戸に出たが、千住で僧日明(にちみょう)と出会い、紹介を得て佐藤一斎(いっさい)の門に入った。佐藤一斎は、安永元年(一七七二)、美濃(岐阜県)岩村藩士の次男である。著書に言志四録(『言志録』、『言志後録』、『言志晩録』、『言志耋録』がある。次いで林述斎の門人となった。
艮斎は二十四歳のとき江戸神田の駿河台に私塾を開き、四十一歳のとき『艮斎文略』
伊豆半島巡りの『遊豆紀勝(ゆうとうきしょう)』を。 天保7年(1836)二本松藩儒となり、
天保14年(1843)藩校教授として二本松へ赴任した。
嘉永元年(1848)『洋外紀略(ようがいきりゃく)』
『明朝紀事本末(みんちょうきじほんまつ)』全80巻を校訂、その後江戸へ戻っている。
嘉永3年(1850)、幕府の昌平坂学問所教授に就任、
嘉永5年(1852)に徳川家慶将軍に進講、
嘉永6年(1853)ペリー来航の際、アメリカからの国書の翻訳を行う。
万延元年(1860)70歳で没しました。
師事した門人は二二八二名の多くを数える。
□外部関連リンク
◇祝・民報出版文化賞正賞『安積艮斎門人帳』
2008/7/6(日) 午前 11:51
... 二本松藩儒を経て、嘉永三年(一八五〇)から万延元年(一八六〇)まで昌平坂学問所教授を務め、黌内の官舎に七十歳で没している。湯島聖堂は艮斎終焉の地。 艮斎誕生の地、安積国造神社は、大和朝廷から国造(くにのみやつこ)に任ぜられた豪族が ...
http://blogs.yahoo.co.jp/asakakunituko/12233723.html
◇幕末の偉人 安積 良斎(あさか ごんさい)
2007/10/15(月) 午前 0:59
安積 良斎(あさか ごんさい) 寛政2年(1791)3月2日~文久元年(1861)3月30日 生まれは、陸奥国安積郡郡山 重信・信・忠順・祐助・良斎の名を名乗る。 父は安積国造神社の神主・安藤親重の3男。 ... 嘉永3年 昌平黌教授となり ...
http://blogs.yahoo.co.jp/yuu_akuma_1105/23847802.html
◇清河八郎の墓
2007/4/26(木) 午後 6:50
... 場所 文京区小石川 伝通院 歴史・由来 天保元年(1830)~文久三年(1863)、幕末勤皇の志士。 羽前(山形県)清川村斉藤冶兵衛の長男。 嘉永四年(1851)江戸に出て千葉周作に剣を、安積艮斎に儒学を学び、その後、昌平坂学問所に入り ...
http://blogs.yahoo.co.jp/miyahamakisa/18309846.html
◇海援隊のこと
2005/7/6(水) 午前 6:07
... 帰国後、海軍に勤めるが、早期退官し、福島県郡山市の安積原野開拓を目指すが果たせず、 明治26年5月30日没 享年 ... 嘉永元年二月大坂に出て儒医・春日簡平の門を叩き医術を修める。 安政六年秋には、いち早く脱藩して長崎に出て ...
http://blogs.yahoo.co.jp/sasuke2727jp/6224408.html
福島県郡山市清水台
安積国造神社
□祭は九月下旬。
八幡囃子山車祭ともいい山車十七臺が曳かれる。
□汎論
山車が曳かれるようになったのは元文三年(一七三八)からだという。
安積国造神社について記述するとき、安積艮斎(あさかごんさい)の遺徳をしのばずにはいられない。
安積艮斎は、寛政三年(一七九一)安積国造神社第五十五代宮司安藤親重の三男に生まれた。名を重信、また信といい、字は思順(しじゅん)、通称を祐助といった、艮斎は号である。
十七歳のよき江戸に出たが、千住で僧日明(にちみょう)と出会い、紹介を得て佐藤一斎(いっさい)の門に入った。佐藤一斎は、安永元年(一七七二)、美濃(岐阜県)岩村藩士の次男である。著書に言志四録(『言志録』、『言志後録』、『言志晩録』、『言志耋録』がある。次いで林述斎の門人となった。
艮斎は二十四歳のとき江戸神田の駿河台に私塾を開き、四十一歳のとき『艮斎文略』
伊豆半島巡りの『遊豆紀勝(ゆうとうきしょう)』を。 天保7年(1836)二本松藩儒となり、
天保14年(1843)藩校教授として二本松へ赴任した。
嘉永元年(1848)『洋外紀略(ようがいきりゃく)』
『明朝紀事本末(みんちょうきじほんまつ)』全80巻を校訂、その後江戸へ戻っている。
嘉永3年(1850)、幕府の昌平坂学問所教授に就任、
嘉永5年(1852)に徳川家慶将軍に進講、
嘉永6年(1853)ペリー来航の際、アメリカからの国書の翻訳を行う。
万延元年(1860)70歳で没しました。
師事した門人は二二八二名の多くを数える。
□外部関連リンク
◇祝・民報出版文化賞正賞『安積艮斎門人帳』
2008/7/6(日) 午前 11:51
... 二本松藩儒を経て、嘉永三年(一八五〇)から万延元年(一八六〇)まで昌平坂学問所教授を務め、黌内の官舎に七十歳で没している。湯島聖堂は艮斎終焉の地。 艮斎誕生の地、安積国造神社は、大和朝廷から国造(くにのみやつこ)に任ぜられた豪族が ...
http://blogs.yahoo.co.jp/asakakunituko/12233723.html
◇幕末の偉人 安積 良斎(あさか ごんさい)
2007/10/15(月) 午前 0:59
安積 良斎(あさか ごんさい) 寛政2年(1791)3月2日~文久元年(1861)3月30日 生まれは、陸奥国安積郡郡山 重信・信・忠順・祐助・良斎の名を名乗る。 父は安積国造神社の神主・安藤親重の3男。 ... 嘉永3年 昌平黌教授となり ...
http://blogs.yahoo.co.jp/yuu_akuma_1105/23847802.html
◇清河八郎の墓
2007/4/26(木) 午後 6:50
... 場所 文京区小石川 伝通院 歴史・由来 天保元年(1830)~文久三年(1863)、幕末勤皇の志士。 羽前(山形県)清川村斉藤冶兵衛の長男。 嘉永四年(1851)江戸に出て千葉周作に剣を、安積艮斎に儒学を学び、その後、昌平坂学問所に入り ...
http://blogs.yahoo.co.jp/miyahamakisa/18309846.html
◇海援隊のこと
2005/7/6(水) 午前 6:07
... 帰国後、海軍に勤めるが、早期退官し、福島県郡山市の安積原野開拓を目指すが果たせず、 明治26年5月30日没 享年 ... 嘉永元年二月大坂に出て儒医・春日簡平の門を叩き医術を修める。 安政六年秋には、いち早く脱藩して長崎に出て ...
http://blogs.yahoo.co.jp/sasuke2727jp/6224408.html