暘州通信

日本の山車

00008 城端祭

2006年06月25日 | 日本の山車
城端町の歴史は、永禄二年(一五五九)に浄土真宗善徳寺がこの地に寺地を定めたことにはじまる。天正元年(一五七三)六斎市が開かれて以来門前町、市場町として発展してきた。寛永十四年(一六三七)以来、城端町は今石動町(いまいするぎ)奉行の支配下におかれていたが、宝永七年(一七一〇)以後、今石動奉行は金沢で執務することになり必要に応じて金沢より出張するようになった。古くから絹織物の町として知られる。
曵山祭は、天正二年(一五七四)城端神明宮が勧請され、貞享二年(一六八五)社殿を再興。以来春秋の祭りが行われるようになったのにはじまる。
亨保二年(一七一七)秋祭に御輿が出来、獅子舞や傘鉾の行列が始まったとされる。
つづいて、亨保四年(一七一九)曵山が完成しておりこれが山車が記録に現れる最初で絵ある。亨保九年(一七二四)御輿の巡幸に曵山が初めて供奉して、現在の曵山祭のかたちが整った。
祭になると曵山や庵屋臺を組み立てる。六か町の山宿の家々では御神像を飾り付ける。
夕暮灯のともる頃より人々は美しく飾り付けのなった飾り山を見物に行く
御旅所は二個所、野下町と新町の南にあり隔年ごとの交替となる。

祭前日には傘鉾の神迎え神事が行われる。
傘鉾はしるし(標)が乗る。、
東上町 鶴の舞
西上町 三宝に玉手箱と鈴
東下町 打出の小槌
西下町 諫鼓鳥
出丸町 将棋盤に柳の枝
大工町 千枚分銅
新町は 手筥に鼓と桜の枝
野下町 大鼓に喇叭と月琴

庵唄の奉納
宵祭には、夜八時頃より六か町の若連中が御旅所に参拝する。御旅所への参拝は囃子屋臺に提灯をつけ笛、大鼓、三味線により賑やかに庵囃子を演奏しながら行われる。
神輿渡御の行列には獅子舞、剣鉾、八本の傘鉾が三基の御輿を先導し、六臺の庵屋臺、六臺の曵山がこれに続く。
御輿と曵山の順路
祭礼には春日、石清水、神明宮の三基の御輿が渡御される。曵山の曳順は前年六番であったものが翌年には一番山となる。庵屋臺も同じである。
祝儀を出して庵唄を自分の家で聞くこと庵唄の所望といい、所望した家では親戚知人を招き、簾をあげて庵屋臺を待つ。庵屋臺は床がなく、演奏者は庵屋臺のなかで屋臺とともに歩いて移動する。六か町の庵屋臺が次々所望する家に横付けしての庵唄を披露する。
囃子方、唄い手は各町とも二十から三十代の若者に限られ女性は入らない。
披露される庵唄、端唄は江戸時代吉原の花街で行われたもので、精巧に作られた庵屋臺は廓の青楼を忠実に縮小再現したもの。
夕暮
薄墨
玉川
夏は蛍
重ね扇
宇治
川竹
忍ぶ恋路
などを所望によって唄う。最近は小唄調もとりいれられている

帰山
城端の曵山は車の軋む音に特徴があり「ぎゅうやま」といわれる車輪のきしむ音に由来する。石川県美川町、越中大門の曳山もきしみ音を響かせながら曳く。
午後七時ころ出丸町を出発した提燈山は九時半頃までに、新町に達し、十時頃には各町の曵山や庵屋臺が勢揃いする。曵山と庵屋臺は交互にならび、新町から大工町を経て各町内に帰る
山車の解体
祭の翌日は曵山、庵屋臺を解体して山蔵に収める。

城端の山車(曵山)
曵山の形は六臺とも大きさはほとんどおなじで、地山という基礎枠に長柄と四輪の大八車をつける。地山の上は飾り桟、雛臺をのせ、雛臺の四隅にそれぞれ柱を立て、鏡天井を張った屋根を乗せ、雛臺には四周に勾欄がめぐらす。
雛臺の四周、後屏には彫刻や細工が施され、全体を漆で仕上げる。漆は城端塗で、ほとんどが小原治五右衛門とその一門の手になるという。
本座人形は大振りで、ほとんど唐津屋和助がてがけている。
城端の曵山は大工仕事を始めその総てが町の人々の手で完成しておりその総合技術の高さは定評がある。たとえば、庵屋臺の一部には見事な飛騨春慶塗がみられるが、これも城端の技術だそうである。


00006 天龍二俣祭

2006年06月25日 | 日本の山車
屋臺
・帽山連 車道
・笹若連 笹岡
・白山連 阿蔵
・城下連 城下
・城南連 川口
・白糸連 本町
・古連 西古町
・旭連 旭町
・吾妻連 吾妻町
・南連 新町
・二府連 神明町
・諏訪連 諏訪町
・古城連 仲町
・又水連 横町

花屋臺
・帽山連 車道
・白山連 阿蔵
・白糸連 本町
・旭連 旭町
・吾妻連 吾妻町
・南連 新町
・諏訪連 諏訪町
・古城連 仲町

小型屋臺
・帽山連 車道
・笹若連 笹岡
・城下連 城下
・城南連 川口
・西古連 西古町
・南連 新町
・二府連 神明町
・諏訪連 諏訪町
・又水連 横町

江戸期には二層の山車が多かったというが、現在は浜松市に見られる御殿型の山車に移行しつつある。

旧天龍市には次の神社の祭に山車が曳かれる。

■熊(くんま)
屋臺一臺

■落合(おちあい)
屋臺五臺

■渡ヶ島(わたがしま)
屋臺一臺

■鹿島(かじま)
屋臺二臺

■山東(やまひがし)
屋臺五臺?

■船明(ふなぎら)
屋臺四臺

■横山(よこやま)
屋臺三臺

■両島(りょうしま)
屋臺一臺?

■青谷(あおや)
屋臺一臺?

■上野(かみの)
屋臺一臺?

■只来(ただらい)
屋臺一臺?

■横川(よこかわ)
屋臺一臺?

■大谷(おおや)
屋臺一臺?

■小川(おがわ)
屋臺一臺?

■石神(いしがみ)
屋臺一臺?





00005 会津田島祇園祭

2006年06月25日 | 日本の山車
田出宇賀神社記によると「柳の木の下に湧き出した霊泉から稲が生えた」のを奇瑞として、ここに神を祀り水田を拓いた」というその後はじまった祭は、斉明天皇四年(六五八年)に祇園社を勧請し、田島城主長沼氏によりはじめられたと伝える
江戸時代は幕府の直轄地となり、江戸と会津、米沢を結ぶ宿駅として栄えた。
会津田島祇園祭を特徴付けるのは「頭屋制度」同地ではお党屋いう。お党屋制度は、神官によらず、神事を奉祭する制度で各地にあるが、田島町のお党屋は、現在十二組が残り、十三年目ごとに祭り当番を引き受けている。古い形態をよく残すものとして注目されている。昭和五十六年国の重要無形文化財に指定された。現在社務は神官により奉祭されている。
祭には夕方から屋臺が曳かれる。屋臺上の子供たちの「オーンサーンヤレカケロ」と
大声で叫ぶ。屋臺は前部が舞臺、後部は楽屋になっており、定められた家の前に来ると、そこで歌舞伎を一幕演じる。この場所を「藝場」という。
屋臺歌舞伎の役者は、長野県とか群馬県などからもきて上演することもあるという。
神楽殿で太々神楽の奉納がある。現在十二曲残るが乙女神楽を加え数曲を演じる。


00004 宮津山王祭

2006年06月25日 | 日本の山車
 宮津藩の域下町は西堀川をはさんで東町と西町に分かれる。東西両地区にはそれぞれの氏神があり、東は和貴宮、西は日吉神社となっている。
日吉神社(旧山王神社)の祭は四月、和貴宮の祭礼は九月だったが現在は5月に統一された。ただ祭はそれぞれ独立して行われている。
神楽が奉納されるが、以前は越前武生(福井県)から一座を招いて大神楽を挙行してもらったと言われる。現在は地元の有志が行っている。
山王祭りは宮津祭、国祭と称され、かつては城下をあげての祭礼であった。
曳山は藝屋臺とよばれ曳山と狂言見物の衆でたいそうな賑わいだったと記録される。
上演された狂言は、地元で演じる場合のほかは、いwゆる買い芝居で、舞鶴や福知山の仲介人に依頼し、また播州・美作方面から世話人の斡旋で子供歌舞伎を雇って演じた
といわれる。

屋臺囃子の曲目はほぼ共通で、
ささぼやし 道中の囃子
天神ばやし 幕開きの囃子
ごんぽ
相生ばやし
・花車
・梅が枝ノ手水鉢
・伊勢音頭 戻り囃子
などがある。宮津市史にはお囃子のCDがついているので聞くことができる。

享保二年({七{七)四月十八日の山王祭礼記録した『宮津日記』には、「当組ヨリ田村屋臺シャキリ入」とある。坂之上田村麻呂を主神とする山車でしゃぎりが演奏されたと推定される。「田村」とは坂上田村麻呂のことで、鈴鹿の鬼退治を主題にしたもの? と想像されている。
『宮津日記』は、その後寛延二年(一七四九)の山王祭に次の屋臺九臺を曳いた記録がある。記録の初見よりおよそ40年後である。
・鈴鹿山
・稲荷山
・春日山
・万歳鉾
・明神山
・二輪山
・天神山
・高砂山
・日吉山

九臺の屋臺は、寛延四年に曳かれ、寛政元年(一七八九)には新たに、
・岩戸山
・紅葉山
・蛭子山
・住吉山

の四臺が加わって十三臺となっている。
牧家文書、「寛政元年山王祭礼行列覚」によると、曳山名称、所属十三町内、狂言演目が次のように記録されている。
鈴鹿山 本町 菊慈童千代の寿
三輪山 本町 花競浮かれ瓢箪
春日山 魚屋町 双蝶々廓日記
高砂山 魚屋町 菜種の乱咲
稲荷山 萬町 彦山権現誓助剣
天神山 萬町 盛衰記がねの段
万歳鉾 職人町 花八三芳野武門の旭
岩戸山 白柏町 弐入婿様堅気
日吉山 白柏町 海女物語和国誉
紅葉山 河原町 郭通ひ花子の噂
蛭子山 葛屋町 義経千本桜四段目
住吉山 猟師町 紅葉狩曲水之段
明神山 川向町 彦山権現毛谷村の段

 山王祭の屋臺巡行は戦後ほとんど中止状態であるが、昭和五十八年再開の相楽山の町内曳き、平成四年十一月二十二日には、ふれあいフエスタ・イン・ミヤヅ同盟が芸屋臺四臺を曳き、宮本町の万歳鉾では七〇年ぶりに子供歌舞伎「御所桜堀川夜討弁慶上使之段」を上演している。


00002 烏山山あげ祭

2006年06月25日 | 日本の山車

永禄三年(一五六〇年)那須資胤は天下泰平、五穀豊穣、疫病消除を祈願して城下五町の鎮守牛頭天王(素盞鳴命)を祀る八雲神社を創建した。
永井氏が領主だった元禄期には狂言が行われたといい、やがて城主が大久保侯に移った
享保から宝暦年間にかけては、江戸歌舞伎が隆盛になったのを受け、山車藝能がはじまった。舞臺装置や背景も「山あげ」による大規模なものになり、江戸時代末期には、今日のような全国にも例を見ない絢欄豪華な「山あげ」による野外歌舞伎が行われるようになった。
山あげは、六町内が年番となって交代に行われ、山車の舞臺を中心に道路上の約一〇〇メートルに大山(おおやま)・中山(なかやま)・前山・館(やかた)・橋・波などを配し、舞臺のすべてをつかい、 新緑が一瞬にして紅葉に変わるなどの陰の演出には青年らが巨大な山を操作する。
歌舞伎は常磐津にあわせて上演されるという壮大なものである。盛夏の炎天で観客は身じろぎもせず見入る。所作狂言が終演すると、装置はあっというまにとりかたづけて山車に積み、つぎの上演場所に移動する。
山は竹を割って網代に編み烏山和紙を幾重にも重ね張りしてつくるが、山があまりにも大仕掛のため、和紙をはるのりにするうどん粉を多量要するため値上がりしたというエピソードがのこされている。

これまで演じられた藝題には
「平将門」
「戻り橋」
「宗清」
「狐忠信」
「梅川忠兵衛」
「関の扉」
「蛇姫様」
「自雷也」
「奥州安達ヶ原・黒塚」
などがある。

昭和三十四年栃木県重要文化財民俗資料第一号
昭和三十八年に国選択の民俗資料
昭和五十四年二月三日に国の重要無形民俗文化財の各指定をうけた。