暘州通信

日本の山車

00005 会津田島祇園祭

2006年06月25日 | 日本の山車
田出宇賀神社記によると「柳の木の下に湧き出した霊泉から稲が生えた」のを奇瑞として、ここに神を祀り水田を拓いた」というその後はじまった祭は、斉明天皇四年(六五八年)に祇園社を勧請し、田島城主長沼氏によりはじめられたと伝える
江戸時代は幕府の直轄地となり、江戸と会津、米沢を結ぶ宿駅として栄えた。
会津田島祇園祭を特徴付けるのは「頭屋制度」同地ではお党屋いう。お党屋制度は、神官によらず、神事を奉祭する制度で各地にあるが、田島町のお党屋は、現在十二組が残り、十三年目ごとに祭り当番を引き受けている。古い形態をよく残すものとして注目されている。昭和五十六年国の重要無形文化財に指定された。現在社務は神官により奉祭されている。
祭には夕方から屋臺が曳かれる。屋臺上の子供たちの「オーンサーンヤレカケロ」と
大声で叫ぶ。屋臺は前部が舞臺、後部は楽屋になっており、定められた家の前に来ると、そこで歌舞伎を一幕演じる。この場所を「藝場」という。
屋臺歌舞伎の役者は、長野県とか群馬県などからもきて上演することもあるという。
神楽殿で太々神楽の奉納がある。現在十二曲残るが乙女神楽を加え数曲を演じる。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿