暘州通信

日本の山車

00025 八尾八幡社春祭

2006年06月26日 | 日本の山車
坂の街八尾を裳階をつけた八ツ棟造の山車六臺を曳く。
風の盆で名高い越中八尾に山車が曳かれるようになったのは、記録によると寛保元年(1741)で、上新町の花山に人形を乗せたのにはじまる。

・今町
慶応3年(1867)建造。彫刻は井波(富山県)の番匠屋与八郎。彩色は城端(富山県)の冶五右衛門。本座人形は天神。京都の又右衛門の作という。

・上新町
天保7年(1836)の建造。彫刻は井波の番匠屋田村七蔵。彩色は永信齋藤藤原良得。本座人形は旧前田家の雛人形で富山藩大仏師治郎平衛の作。

・西町
延享3年(1746)に花山が創建され、天保13年(1842)に再建された。彫刻は井波の番匠屋田村与八郎。彩色は湯本椿谷。

・諏訪町
明治15年建造。彫刻は井波の番匠屋田村与八郎。彩色は井波の南部吉蔵。

・下新町
大正4年建造。彫刻は否みの番匠屋田村与八郎。彩色は高岡(富山県高岡市)の本保兵太郎。本座人形は昭和に井波渓久平作の大黒天。

・東町
寛政7年(1795)建造。彫刻は番匠屋九代目、北村七左衛門。本座人形は小野小町。京都の小兵衛作。
 創建は寛保2年(1742)。




00024 魚津浦たてもん神事

2006年06月26日 | 日本の山車
車輪はなく臺枠は橇状である。
富山湾に面した諏訪神社に宮入りするとここで勢いよく回転させる。針綱を持った製ベンたちははじめははしってまわっているが、回転が速くなってくるととても追いつけず、針綱にぶらさがって空を飛ぶ。
蜃気楼、ほたるいかなどでよく知られる魚津は、スター・ウオズの祭ポスターが貼られている。ありそホールに実物約2分の1の模型が展示されている。








00022 八百津祭

2006年06月26日 | 日本の山車
大きな山車が狭い通りを曳くから、ときに家屋との接触が起きる。角を曲がるときは特に大変で、家の軒を山車に引っ掛けられて大損害が発生することも。
過去には威勢の若者が、過失にみせかけとんでもないことをしでかしたから、難を恐れ祝儀をはずむ。集めた祝儀は川向の高台で無礼講のしたいほうだい。芸者衆をよんで三味線をひき、太鼓をたたいて大騒ぎをしたものだった。

・芦渡山車

・細目山車

・黒瀬山車

山車三臺は、昭和五十九年四月二日、八百津町の文化財に指定された。大船神社の祭礼日に曳かれる
船の形をした曳山は大船神社の社名や、古くから木曽川の舟運で栄えた、黒瀬湊にゆかりが深いのだろう。山車の制作者は不明である。車輪は直径約九十センチ。四輪車。山車の長さはおよそ九メートル。幅一・八メートル、高さ五・四メートル。重量はおよそ三・八キロある。
 大船祭の祭礼用道具箱に「元和三歳亥之八月十三日」の記載があることから、江戸時代のはじめ、元和三年(一六一七)には祭礼が行われていたと考えられている。

山車は、左右の舷部は勾欄が設けられ、屋形部分の柱は四本とも紅白の幕で巻かれる。
先頭は日章旗が竹竿で掲げられ左右に交錯させて結ぶ。
屋根はゆるやかな神明づくり。
右手には小学生の児童が鼓を打ち、左手には青年が笛太鼓を奏する。見所は三叉路になった狭隘な道路で方向変換を行うとき、梶方を十六人の青年が担当し「十六人衆」という。
町内のある女性は、「祭のときは女に生まれたことをうくづく恨んだものです」と。
不良老人たちは「昔はよかった」とつぶやく。







00017 美川おかえり祭

2006年06月26日 | 日本の山車

神幸祭の経路が毎年かわり、一〇年めにふたたびまえの道に戻ることから、おかえり祭の名がある。
手取川が日本海にそそぐ地にひらかれた美川港の開港はおよそ二百五十年前といわれる長い歴史がある。かって北前船が美川の港に出入りし美川は港町として繁栄した。
富山県の岩瀬が神通川河口に開港された事情とよく似ている。
美川おかえり祭は藤塚神社の春季例大祭として行われるのがおかえり祭で、始まりは、江戸時代中期といわれる。
紋付、袴姿の若衆のラッパが勇壮に神輿を先導する。

・西新町臺車
本座に幼い神武天皇を抱く武内宿禰を飾る。鏡板のの縁どりを格狭間とする。地元では「りんご形」といっている。
・東新町臺車
本座人形は日本武尊、傘鉾型。大正十年に白木で完成、昭和三十二年に塗箔が施された。・永代町臺車
最も古い臺車の形態をもつ。太鼓を乗せ狩衣の子供が囃す。
・今町臺車
神社の全景を表す。傘鉾、屋根形である他の十二台とは趣を異にし、常に先頭を巡行する。
・濱町臺車
やや小振りながら本臺のつくりが凝つている。揚貴妃のからくり人形を飾る。
楊貴妃は、からくりで有名な大野弁吉の作といわれ、山車を曳くとこれにあわせて楊貴妃の足があたかも歩いているように前後に動いたという。いまも車輪の動きを人形に伝えた駆動構造(カム)が遺構として残っている。
参考
大野弁吉
・大野湊には大野弁吉がつくったからくりがいろいろ集めた展示館がある。
・末廣町臺車
神前に供える榊と鏡を飾るという特徴を持つ末広町臺車。
・和波町臺車
昭和五、六年ころの再建。
本座に豊臣秀吉の人形を飾る。
・家方組臺車
唐破風屋根がある。本座人形は巫女の舞い。
・南町臺車
屋根形。本座飾人形は浦島太郎、神武天皇と変遷し、いまは蘭陵王となっている。
・中町臺車
大型で豪華さを誇る中町臺車。入母屋屋根がある、本座人形は「蘭陵王の舞」。
・北町臺車
漆芸、鋳金に高い技術が見られる。「手力男尊」を本座人形とする。
・神幸町臺車
「猿田彦命」を本座人形とする。鏡板には「唐獅子十二態」が組み込む。
臺車は一個所に集めた臺車蔵がつくられここに保存されている。祭にはここで曳き出し前の装飾や整備が行われる。
山車の車輪をとりつけるとき割木を車軸と車輪の間にいれられる。山車を曳くと独特のきしみ音がでる。割り木の加減でこの音色がいろいろ変わる。
参考
・富山県城端祭 おなじようにきしみ音が響く。「ぎゅうやま」といっている。



00013 富山東岩瀬の曵山祭

2006年06月26日 | 日本の山車
「岩瀬けんかまつり」の異名がある。山車上に判じ物の作り物を飾る。文字を使わず絵解きの謎が仕掛けられ、観客が首をひねる。
 ふだんは静かな諏訪神社社前は立錐の余地もないほどの人で埋め尽くされひと目見ようとする人たちで大混雑する。
神社前の道路で表方(山側)と浦方(浜側)の山車をはげしくぶっつける。道路の両側にスクラムを組んだ警官がぎっしりとかためるなか、そのあいだの道路を若者が100メートルはある引き綱を曳いて疾走し、そのまま相手方と行き違いになって山車の前面同士を衝突させる。衝突後もなお引き合い激しい揉みあいが繰り返され、山車は横を向いたりときには方向をそれて観客のなかにつっこむおともある。罵声が飛び交い殴りあいにもなる。大混雑のなか、観客同士の喧嘩が起こることもしばしば、顔から血をながし、大の字にひっくりかえったって警官は見向きもしない。
 全国に喧嘩祭は多々あり、山車と山車。山車と神輿をぶっつける祭はあるが、この富山東岩瀬の曳山祭以上に激しい祭を知らない。県内の伏木のけんかやまの「かっちゃい」、小矢部津沢の夜高祭、福野町の夜高祭、氷見祭も激しい祭だがそれ以上の物騒な祭である。

表方の町内
・新町
・荒木町
・土場町(どばまち)
・新川町(にいかわちょう)
以前は新館町と川原町であったが、合併して新町名が新川町となった。
・御蔵町
・祇園町
・福来町(ふくらいちょう)

浦方の町内
・大町
・松港町(まつみなとまち)(港町)
・白山町(萩浦町)
・永割
・赤田町 平成三年より曵山を作り参加するようになった。




00012 上野天神祭

2006年06月26日 | 日本の山車
楼車(だんじり)曳行順は籤取式で決まる

小玉町
小蓑山
芭蕉の俳句「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」にちなむ。
しるしは、三社の託宣。伊勢神宮、石清水八幡宮、春日大社の三社の託宣。
七福神を飾りものとして宝暦元年に始まる。現在人形は保存されている
近年は七福神は出てていない。

西町
花冠
鼓を身につけて踊る鶏鼓舞の花冠にちなんで名づけられた。
しるしは諌鼓。文久三年(一八六三)九月の作。

ニ東(にとう)
古い町名の二の東町の略。
しるしは月鉾。
近年復活した。

其神山.葵鉾の別名がある。
「いかなれば其神山のあふひ草としはふれどもふたばなるらむ」にちなむ。
「其神山」は上加茂神社の枕詞で「葵草」は加茂祭に用いられるフタバアオイのことである。
「いかなれば」の起句を伊賀にかけて、だんじりの名にしたといわれる。
宝暦九年の建造。
しるしは菊慈童。
享和二年(一八〇二)菅公九百年を契機として作られた言い伝えがある。

向島町
鉄英剣鉾
英は花房の意、従つて花鉾を意味する。現在の鉄英剣鉾は安政六年の建造。
しるしは日月扇。
近年復活。
天神は日月を運行すると信じられていたことにちなむ。

紫麟は鮮魚の美称、魚町にちなむ。
しるしは列仙伝にある琴高仙人。
参考
琴高仙人
・富山県八尾町
・岐阜県高山市
など

薙刀鉾
天明三年頃の創建と考えられている。
しるしは白楽天
中国の詩人、白楽天像の大作。嘉永四年(一八五一年)九月京都丸屋利兵衛の作になる。近年、松の木を添える白楽天像に変え衣装を新調した。
参考
・京都祇園祭


福居町
三明
三明は日、月、星を指す。まがる勾欄の金具は三重県文化財の指定を受けている。地車すり揚げ万力により綱あげする機構がある。
参考
・京都祇園祭

六東町
桐本
かつて天神社にあった桐の大樹にちなむ、文政十年の創建。
しるしは逆熨斗