暘州通信

日本の山車

00947 聖神社祭

2006年06月04日 | 日本の山車

・行徳宮元
・行徳三区
・南行徳
・瓦町
・今町一丁目
・今町二丁目
・鹿野街道
・元町
・川端一丁目
・川端二丁目
・川端三丁目

などの町内が一三臺の屋臺を曳く。
昭和二七年の鳥取大火に見舞われるまで約四〇臺の屋臺を曳いたが、わずか数台を残すのみで焼失した。現在も旧に復するところまでには到っていない。

00205 千田祭

2006年06月04日 | 日本の山車
伊太祁曽社とのかかわりが深かったようである。
由緒、和銅六年、紀ノ川上流の大和国吉野郡の西川峯から遷座したと伝えられる。
祭は一〇月中旬。
太鼓臺六臺を曳く。

鯛投神事、けんか祭の別名がある。伊太祁曽神社から氏子代表の参詣があり、伊太祁曽神社の祭にはここの須佐神社氏子が赴く。
延喜神名式には紀と出雲に共通する神社名がある。島根県の出雲氏は大阪府和泉を押さえ、次第に紀州に勢力を伸ばしたと推定する。応神天皇陵、仁徳天皇陵と伝えられる陵墓も出雲系かもしれない。

出雲意宇 熊野大社 とあるのは現在の 紀牟婁 熊野本宮大社
出雲大原 加多神社 とあるのは現在の 紀名草 加太神社
出雲意宇 速玉神社 とあるのは現在の 紀牟婁 熊野早玉神社
出雲意宇 韓国伊太神社 とあるのは現在の 紀名草 伊達神社
である。韓国伊太神社は伊太祁曽神社とのかかわりが考えられる。

岐阜県飛騨地方に伊太祁曽神社六社が祭られるのはこの神社を氏神とする氏族にかかわりがあろうと推定している。
熊野灘から木曽川を遡上し長野県安曇氏とおなじ経路をたどっている。
信州木曾は、伊太祁曽とかかわりがあるだろう。

紀伊續風土記 巻之五十八 在田郡 保田荘 千田村から須佐神社
 境内方四町四十間 禁殺生
 祀神 素盞烏尊
 末社十社
  天照大神
  手力雄命
  伊弉諾尊        
  日本武尊社
  伊弉ナミ尊
  月讀尊 
   以上瑞籬の内にあり
  瀬織都理比賣社
  多紀理比賣社
  市杵島比賣社
  多紀都比賣社
  宇迦御靈神
  軻遇突知命
  大巳牟遅名社
  猿田毘古命社
   以上社地の内所々にあり

  神楽所 宿直所 與舎
  四脚門 寶蔵 御太刀寶蔵
  御装束間 御祈祷所 厩
  伊太祈曽神社遥拝所
 延喜式紀伊國在田郡須佐神社 名神大 月次新嘗
 本國神名帳在田郡従一位須佐大神

 村の西南小名西方にあり保田荘五箇村の産土神にして劔難の神と稱す劔難除の神符を諸人に與ふるを古例とす。郡中の大社なり郡中當社の外式内の神社なし 三代實録貞観元年正月二十七日甲申奉授紀伊國従五位下須佐神従五位上とあり、此地古須佐郷といひ今又近郷に宮崎等の名遺れるも當社あるを以てなり詳に宮崎宮原兩荘の總論に載す 又栂尾明恵上人傳記建仁元年の條に紀州保田荘中の須佐明神の使者といふ者夢中に來りて住處不浄を歎く事あり是古より今の社地に鎭座の明證といふへし社家の傳に和銅六年十月初亥日此地に勧請すといふ 社記曰此神舊在大和國芳野郡西川峯後移于此始祠向西海洋中往來之船不恭謹則飜覆破碎 元明天皇勅令南面今之社規是也とあり、寛永記に名草郡山東荘伊太祈曾明神神宮郷より亥森へ遷坐し給へる年月も是と同しきは故のある事なるへし當社領古は伊太祈曾神戸に接して名草郡にあり其地又當社を勧請せり 詳に名草郡山東荘口須佐村の條に辨す合せ考ふへし 天正の頃まては毎年九月初寅の日神馬十二騎山東伊太祈曾より來りて神事を勤めしといふこれ古の遺制なりしに今皆廢せり又日高郡富安荘當社及伊太祈曾神領なりし事あり 伊太祈曾社蔵久安文書是當社伊太祈曾の父神に坐すを以てなり
天正七年、豊臣秀吉公信長公の命を受けて此地を畧せる時湯淺の地頭白樫左衛門尉實房内應をなし里民を強暴し神祠を毀壊す社家大江氏重正といふ者神器靈寶及縁起記録等を唐櫃二具に蔵め今の神祠の後光谷といふ谷の林中に隠す實房これを捜り出し或は火に投じ或は海水に没し亂虐殊に甚しこれに因りて當社の傳記文書の類一も傳はる者なく古の事蹟詳にするによしなし其後神殿を造營し今の姿となる社領没収の後も祭祀古の姿を模して九月十四日神輿渡御の祭禮流鏑馬等皆一時の盛なるを極むといふ元和年中、新に社領五石を寄附し給ひ享保年中、大慧公より御太刀御奉納あり 有徳大君御太刀一口御馬一匹を御寄附あり社務を岩橋安藝守といふ大江姓にして古より代々神職なり。

とある。

◆谷口與鹿の死

2006年06月04日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿の死
 橋本香波の媒酌で高畑の娘を妻女として迎え、三子をもうけたという話が残っているが事実は不明である。

谷口與鹿の墓碑

墓は印紐型

 與鹿は酒が好きで、死後も酒徳利の形の墓を望んだ。という言い伝えがある。
 避けず揮だった與鹿の逸話を助長するおもしろい話しで、説得力があるので信ずる人もいる、だが、実際には、 

 墓は印鑑のつまみに凝らせた「印紐型」でいかにも文人の面目を感じさせてくれる。


與鹿の死を惜しむ人達の寄付で建てられた。
わけても香波の悲しみはいかばかりであったか。
 香波は自ら墓をデザインし、墓誌を撰んだ。


 葬儀は墨染寺で執り行われた、このとき堂内に與鹿の画がいた十六羅漢が十六幅かけられたのが人目をひいた。生前墨染寺にある兆殿主筆の宝物である十六羅漢を参考に描いたものである。
 この十六羅漢像の行方が不明であった。
 当然墨染寺にあるものとばかり思っていたのであるが、私が訪ねた節は同寺にはないということであった。
 再三おたずねしたが、住職は寺宝の兆殿主の十六羅漢はあるが、そんなものは聞いたこともない一体どこで聞いてきたか、と大変な剣幕で、ほうほうの体で辞したのである。
 後日十数年たって、伊丹博物館主催の展示会において出品されたのを見せていただいたのは感動であった。

 やはり存在したのである。
 


◆谷口與鹿 長崎を発つ

2006年06月04日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 長崎を発つ
 山の斜面には黄色い実がなっている
 そういえばここは茂木琵琶の本場である
 ふとみずみずしい果肉の香りをかいだ気がした。

 バスはやがて小さな入り江になった波止場の近くで止まった。終点である

 小さな漁船がもやっている、日用品や雑貨などを売る店が数件あるほかは普通の民家である、後にすぐ山が迫る狭隘な地である
山を開いた斜面にザボンや琵琶をつくり、あとは漁業で生活しているのだろう
 梅雨明けも近いこの港町の風景は明るく潤いがあった。
 今きた長崎の方を振り返ると、左手の山際には寺院の屋根が見えた
 あれに違いない、なにか確信のような自信がわいてそちらに向かって歩いて行った。
 まちがえたときは教えてもらえばいい。
門前までくると、道から山門までは細い一本の道であったが、正面に山門が見えた
 山門をくぐると、やや左手正面に本堂。そのさらに左手に庫裏があり境内はゆったりしとしたた広さを感じた。大きな松が数本、重厚な雰囲気を漂わせている。
 その古さから言って、本堂は香波と與鹿がおとずれたときもこのたたずまいであったろう。
 ここに二泊したのだ。もてなしてくれたのは白華上人。香波が大阪で乗船船出したとき門司まで同乗したのがこの白華上人であった。
 頼山陽が九州を訪れたときやはり一人の僧と一緒になった。山陽のあとをたどる香波はその旅の出合いに偶然と運命を感じた。
 また、事実この出合いが、後日香波の人生を大きく変えることになる。
 長崎滞在中にはこの地に白華上人を数回訪ねている。乞われて與鹿が画を描き、香波が詩を添えて贈った。再会を約してふたりは旅立った。
 香波と與鹿は島原へつき雄浜の温泉では数日滯在している。 硫黄のにおいが鼻についた。
 島原から雲仙岳登ったが、その雄大な景色はふたりの眼を楽しませた。
 香坡と與鹿はここで珍しいものを見た。野生馬である
 このころはまだ野生の馬がいたのだろうか。
 ここからどのように海を渡ったのかはわからないが、水郷の柳川に渡っている。
おそらく礼山陽、梁川星巌とおのじみちをたどったのであろう。
礼山陽が海をわたるとき、ひどい嵐に見舞われ九死に一生を得た。いまはのんびりとフェリーが行き交っている。
 操舵室が見えるが、テレビで相撲を観戦しながらのんびりと運行している。
 筑後川仁沿って流れをさかのぼった。
 香坡はここで山を見て一首つくっている。
 佐賀ででの楽しみは佐賀に寄り草場珮川にあうことだった。
 珮川は鍋島藩の重臣で多忙であり、朝鮮との外交上の藩命でるすであった。
 篠原小竹、頼山陽、草場珮川ら関西より西の詩人六人の詩を集めて出版されたのが「摂西六家詩抄」である。
 この編集には小竹の娘婿である後藤松陰が当たったが、與鹿はやはりこの松陰とうまがあった。ちなみに後藤松陰は美濃の出身である。
 佐賀の取材には大きな期待を寄せていた
 草場珮川は日々の出来事を克明に日記につける習慣があったといわれているからであるていたと聞いていたからである。
 佐賀の駅でタクシーに乗ると、運転手が愛 想よく吉野ヶ里ですかと聞いた、
 一目で観光客とわかったらしい。佐賀城址の県立図書館までといったら少しがっかりしたようで無口になった。
 佐賀じょうしにある図書館は県庁の横手にあり受付の職員は親切であった
 だが、草場珮川日記はなかなか見つからなかった
 一度出版の計画があったのだが、珮川の敗戦の子孫のひとたちがが佐賀を離れ、今は京都に引っ越してしまったため連絡がとりにくいのだそうである。
 職員は少しお待ちくださいといってその場を離れたが、しばらくすると笑顔で帰ってきた。こちらにきてくださるそうです。
 といってある大学教授に仁連絡をとったことを伝えた
 当時の計画の中心にいた人物なので、何か手がかりでも掴めたらと思ってという配慮であった。 気持ちはとてもありがたかったが、これには大いに恐縮した
 しばらくすると教授がやってこられた。
 初対面の挨拶に続いて、恐縮の趣を伝えると、にこにこしながら、司書の説明を聞いていたが、残念なことですがまだ日のめを見ていません。
 また、計画の中心にいたのは家内でしてといって、
 自分は当時大学の方が忙しく、夫人は資料の収集に当たって夫の地位が有力であったということである、当時ずいぶん手伝わされました。
 といって教授は笑ったが温和な感じであった。
 佐賀におけるてがかりはここで切れてしまった。
 與鹿と香坡が草場珮川からどんなもてなしを受けたのか、訪れた日や、滯在の様子などわかると期待したのだが致し方ない。
 他日の縁をまつことにしよう。   
 しかしせっかく来たことだし、せめて珮川のの居住地跡を見たいと思って尋ねると、史跡に指定されていますからすぐわかりますよといって地図を描いてくれた。
 お礼を述べて図書館を辞した

 佐賀城址は石垣を巡らしたゆったりした平城で堀の幅も広く、大きな柳が堀をめぐって枝をを垂れている
 大手門をでると前が松原で、酒家が軒を連ねている。 今日の泊りは佐賀にしよう。
 ひとりでうなずくと一件の店の暖簾をくぐった。旅先の親切くらい心がなごむものはない。
 ほのぼのとした気持ちであった。翌日はさっそく珮川住居跡を訪ねた
 武家屋敷跡新居氏の碑がたっていた
 與鹿と香坡は珮川を訪ねた。
 再会の感激を香坡は詩にしている。
 その珮川の居住した跡がここなのである
 香坡と與鹿がここを訪れた。
 一八〇年の時間を越えて今自分がここにたっている。そのことに感慨を覚えた。
 その模様は珮川の日記に残っているのであろう。
 いつか明らかになる日がくるであろう。
 だが当時珮川は藩命により壱岐に出張しなければならなかった。
 朝鮮の使節を迎えて、 朝鮮との外交交易上の公務があったからである。
 珮川は朝鮮語に堪能であった。
 おそらくあわただしい再会であったであろう

佐賀を後にすると
 やはり筑後川に沿って豊前に向かった
 秋の日は旅のうちにも日々、短くなってきた
 朝からの秋霖がやまず
 疲れた身体をすっかり濡らした
 かかとがすっかり隠れるようなぬかるみの悪路でふたりは杖をつきながら寒さにふるえて歩いた。
 前方は雨と霧に閉ざされて何も見えない。 左手を流れる筑後川の水の音だけが耳についた。
 それでも、しばらくすると土橋がありその橋の下で少し休息して衣服を絞った。
 これではとても目的地までゆけない
 そのとき母屋のむこうに数戸の民家が眼にはいった
 無理を言って雨露だけでもしのがせてもらおう。
 橋のたもとにつったてておいた杖がすっかりぬかるみにとられて、ぬこうとしても抜けなかった。息は白く、手も身体もすっかり凍えてしまっていたのである。
 香坡は苦笑いして杖を捨てると與鹿と歩きだした。
吉井は立派な町であった

 村にはいって尋ねると、この先に頼めば泊めてくれる農家があるという。
 湯を沸かして熱いお茶をいれ、干し柿をだしてくれたが飯はないという。
 囲炉裏に薪をくべると衣服をひろげて乾かした。
 酒なら少し有るという。
 さっき子どもが拾ってきた銀杏の実が果肉を洗って干してある。
 これを焚火の熾き火で灰に埋めて焼き、肴にして呑んだ。
 少し元気のでた與鹿が、飯がなくても酒があるところはさすが九州男児だとほめたが、その冗談は空き腹にこたえた。
 空き腹で飲んだ強い地酒で、酔いが回ると一度に疲れがでてそのまま囲炉裏の脇でまどろんでしまった。
 すっかり風邪をひいたのであろう、つぎの日は発てなかった。
 農家のひとは親切だった。
 
 前方に櫓が見えてきた
太鼓をおく鼓楼である
 ひとよんで遠思楼

 あまりにも有名な広瀬淡窓の私塾である。
 ついに豊前日田についたのである。
 広瀬淡窓の遠思楼についたが広瀬淡窓の病が篤く、あうことができなかった。
 まえあここにいるはずの、木下逸雲が一足違いで出立したあとだった。
 ふたりは大いに落胆したことであろう。
 ところが與鹿はここで思いがけない人物にであった。
 遠く故郷を離れて同郷の親しい人物にあったのである。

 一人は上宝村常蓮寺の住職の息子である
 もう一人は、飛騨代官所役人、上村家の息子満義であった。
 おどろいたことに
 常蓮寺の息子は優秀な人物で、淡窓の信認が篤く塾頭をつとめているという。門下生数千人をだしたといわれる遠思楼の運営にふたりの飛騨人が関わっていたのである。
 こののち弘化七年與鹿は広瀬淡窓の弟旭荘をともなって高山に帰ることになるのだが、まさかこのときは想像もしなかったことであろう。
 上村は家督を継ぐため近く帰郷すると言ったが、まったく思いがけないうれしい出会いであった。
 上村の家は與鹿の家とも近くとしは與鹿の方が上であった
 こどもの頃から面識があり、奇遇を喜び懐かしがった。
 後日、上村は帰郷後、上村木曽右衛門満義を名乗って父の後を継ぎ、地役人となった。 公務で飛騨各地に赴いたが、このときの出張を記録して本にまとめたのが「飛騨国中案内」である。
 日田ではなぜかあまり滞在していない。
 ここで水荘に遊んだ香波の詩がある

 日田をあとにしたその日は守実村まで行って泊まった。
 ここにはすこしぬるいが温泉がでる
 たびの疲れをいやすには願ってもない
吉井で秋雨にうたれた後がすっかり心身さわやかになって耶馬渓に向かった。
 香坡と與鹿の旅は正確に頼山陽の旧蹟をたどる。

 耶馬渓、奥耶馬をはじめここでは十日あまりも滯在をして與鹿とともに画筆を揮い詩をつくった。
 香坡の感動はここにきわまったくらい心を動かされた。
 西遊の旅もいよいよここを離れればほぼ尽くしたことになる。
青の洞門をぬけ川沿いに下ると豊前中津までは二日とかからない。

 中津港の沿革は古い。
 また、ここでは、臼杵、宇佐八満を訪ねなかったのだろうか。
 難波まで船便である 
記録に残るものをさがしているがまだ見つからない。
 ただ、旅程の前後を考えるとこのあたりで1ヵ月くらいは滯在したと思われるのだが
 ふたりは中津から船に乗った
 帰途、備前の下津井を通ったときは、船は港に入らなかった。
 九州に下ったときを思い出して香坡は感慨を新しくした。
海上はおだやかで、
 明石をすぎると六甲山が見えてきた。
 脱線するが
 香坡は神戸の六甲山を六児山とかいている
のがおもしろい。
 かつては、むくらのやま、むくらのかわで武庫山、武庫川であった。
 今は川にのみ、その名が残っている。
 今の六甲山系よりもう少し山の範囲が広く北の丹波の国との境あたりまでの山を含んでいたらしい。
 能勢にいたる途中に一庫があり、ここにあるむこやまに「向山」の字を当てている。
 また関東には武甲山があり、やはり「むこのやま」こちらの国名が武蔵の国、やはり「むくらのくに」で関西の武庫とは同義と考えられる。
 
 この武蔵の北が今の群馬県で古くは「けのくに」これを上下ふたつに分けて、「かみつけのくに」「しもつけのくに」それぞれに漢字を当てて「上野の国」「下野の国」となった。
 けのくには「毛の国」であり上下ふたつを合わせて両毛という
 橋本香坡はこの群馬県沼田の人で自ら雅号を「毛山」と名乗っている。

 武庫山では読めない人が多かったので親しめるようにと易しい字を当てた六児山、六甲山にしたらこんどは「ろっこうさん」になってしまった。
 
 春になると山の斜面に馬のかたちが現れるそれを適期に・たんぼの代かきを始めた。その目印になる山を代馬と名付けた、そうするとこんどはこのやまをだいばとよぶひとがでてきた、それではまずいというのでただしく「しろうま」と呼んでもらおうと改名して白馬岳にした、するとこんどは「はくば」とよぶようになった。
 少し前まで信濃四谷とよんでいた駅がなくなっており、それらしき場所になんと「白馬駅」がある。
 われわれの岳人仲間は今でも白馬でないと何か親しめない。
 若いひとは白い目でみるがね。

 長旅から帰るともう年暮れであった
 與鹿は香波とと一諸に伊丹にゆき泊まったが夜具が冷えてなかなか寝つかれなかった
 しばらくまどろむと長崎の多いでが脳裏をめぐった

 香波はこの寝つかれない夜を詩にする
 明ければ安政五年となった
 一月二十二日香波は両親の七回忌と妻の三回忌の法要を営むと、大阪に住むところを探しに出かけた。やがて住まいを決めると四月香波は大阪に移った。

◆長崎滞在

2006年06月04日 | 日本の山車 谷口與鹿
妻の遺品を主治医の吉田三柳、下女の松らに分け与えるとのこりはすべて売却し、両親、妻の墓、それに生きて自分の墓である生壙を建て、碑文には、

(表)橋本静庵の墓
(裏)名通字大路号香坡俗称半助 上毛沼田人 父担翁 
   母渡辺氏 性不喜仕進 放浪文酒 徒住伊丹
   安政丙辰十一月 営生壙於考妣墓前 欲無累後也

 と記す。

 仕進を喜ばなかったとわれるが、これは沼田藩士であることともに、伊丹にあって、明倫堂の教授であったこともまたおなじであったのだろう。
いたずらに伊丹にすむというのは。放浪文酒を好むとは與鹿の生き方そのままではないか
安政四年(一八五七)の四月、橋本香坡は與鹿とともに九州・西遊の旅に発った。橋本香坡の通行手形が残っているので、まずそちらを先に紹介する。

宗旨證書の事

近衛殿御家領
播州川辺郡伊丹昆陽口村
橋本半助

右は拙者の旦下にして御法度の宗門等に毛頭これなく候この度諸国遊歴をまかり出て候。万一病死などいたしそうらえば、其の処の御法にとりて葬り、その段確かなる便をもって、当寺はお知らせくださるべく候別に飛脚お差しには及ばず申し候。
それよって件の如し。

安政四年丁巳四月
京百万遍 知恩寺末
播州伊丹
法巌寺 印

諸国
寺院並御役人中

前書のとおり相違これなく候、国々御関所相違なくお通しくださるべく候。以上

右村
庄屋 新右衛門  印

とある。庄屋 新右衛門とは白雪の小西新右衛門のことである。

丁巳首夏将西遊。留別伊丹諸子

すでに衣をひきてとどむる妻はなく
孤剣瓢然として遠遊をなす
幾歳雲を望みし篭裏の鶴
今朝絆を脱す厩中の□馬
二親の墳墓の離恨に悩む
諸友の・・>HAI酒杯物愁を消す
旧を懐い恩に感じ腸断たんと欲す
この郷我においてもまた並州

妻を昨年の四月になくし、ちょうど一年、子どももなくもう係累はいっさいなく
このたびにでるのを止める妻もいない
篭の中の鶴のように何年この自由の空を思ったことだろう
いうなれば、絆の説けた厩の中の赤馬と言うところか
しかし、両親の墓を離れることはとてもつらい。
伊丹の諸友たちと酒を酌み交わしていると、別離の愁いも消えてゆく。
しかしおもいかえせば、伊丹十九年の生活は、腸をたつおもいである
この伊丹の町は私にとっては、上州沼田と全く変わらない同じふるさとなのだ。

舟にて浪華を発して二十二日には下関についた。

風が生じまたやめば、舟足は早く、また遅く。
雲が多い。また開けば山は見えまた隠れる
摂州の洋上から見る新緑の季節
まことに元章の水墨画を思わせる

順風に帆をかければ波は静かで
舟にすわる人たちは、座敷にいるのとかわらない
見ず知らずの人達と笑って談し、
冗談をいっているのを聞いていると
今日の同乗者はみな兄弟のような親しさである

雨天となって港に舟をつなぎ
晴れるのを待つ間と
一人窓によって外をみれば
新樹が雨の山に煙っている
しかしそれもすこし見飽きてきた

煙雨は嘗章蕭々と海鹿を呼ぶ
曲州や横たわる島は日暮れの中にぼんやりとしている
舟は備前の西南の港に泊まる
灯火は林に隔てられて見え隠れしている
(この日十五日下津井にとまる)

この十五日は妻益子の祥月一周忌の命日に当たり
香坡と與鹿はこの瀬戸の下津井港で故人をしのんで杯を重ねた

浪華を立つ時伊丹の友人からはなむけにもらった四斗だるの丹醸
港の漁師に一壜与えたら目の下一尺もある魚を3匹もくれた。
この魚を早速膾にし、羹に煮れば、酒は佳し酔臥すれば
山海は復た目に新しい。
今丁度、上関を過ぎた所である。

この「元昭の水墨画を見るようである」といったのは、舟の上で與鹿が琴を弾いていたのであろう。
與鹿の弾く琴が顧元昭の霊和琴(玉堂琴)、浦上玉堂がそっくり写してつくった浅水琴であったためで、中国の故事「知音」にならい、與鹿を伯牙に見立てている。

波は泊まっている舟をうち一晩中鳴りきしんだ。
舟の箱枕は揺れ動いて眠る事ができない

ふと詩興がわいたので
梶にもたれて座りなおし、月明りに吟じてみた。
(この夜は潮が悪く舟は出立できなかった)

雲や峰は東に走る山陽道
煙る海の西に開ける筑紫州
萍跡すでにきたる千里の外
阿弥陀寺畔の新愁動ず

瓢遊、新愁に動じ感じて一作する
下関の阿弥陀寺町にある「赤間神宮」は、平家一族と安徳帝をまつる一見お伽話の竜宮城を思わせる、美しい朱塗りの神社である。
神域の一隅には「七盛塚」といわれる資盛、敦盛、知盛、経盛、有盛、教盛、時子ら平家一門の墓と、小泉八雲の小説で知られる「耳なし芳一」の像があって、平氏の夢の跡を今に伝えている。
深い木立にかこまれた薄暗い霊域には、香烟がたちこめ、。鬼気迫る幽玄な気に充ちている。
阿弥陀寺はもと寺院であったが、明治期に赤間神宮になった。すぐ前まで海がきていたというが、次第にうめ立てられて、今は社前が広くなっている。

この地を訪れた梁川星巖夫妻は

阿弥陀寺杳としていずれのあたりか
海気濛々として水天につく
夜半火来たって鬼馭を聞く
雲中柁響いて商船を見る
凄涼たる破廟、荒山の雨
剥落せる残碑古路の煙
あまつさへ白楊の疎影は冷ややかにして
悲風吹きわたる御裳川
この御も濯川は、二位の尼、時子が安徳帝を抱いて入水する時辞世に

いまぞ知る御裳濯川の流れには
   波の下にも都ありとは

と詠んだ川で、下関を流れる。

小屋瀬で同行の肥前茂木、玉臺寺の
某上人と別れる
定めて知る三世の好因縁
陸は肩輿をともにし、海は舟をともにす
教派分かれに臨んで再開を期す
玉臺山上、月は天に明かるし

空と海は遥か靄によって上下に分かれる。
長門と豊前の間にある満珠、乾珠の二島にはさまれて潮の流れは早い。
これから先また千里。
しかし鎮西の山は、もう船窓から手の届く近さである。

筑前の路上

駅舎の竹の駕篭は席も簾もゆがんでいる
滑ってすべるぬかるみの道
衣服が風雨に濡れるくらいは気にいていられない
座ってみる松のみどりに鮮やかな藤の花が映える

この詩作は、星巖の旅をおもいだしている。

梁川星巖も九州にはいり博多に向かうとき雨に降られた
このとき、

雨に阻まる

客窓連日雨蕭々。
座して残暑を擁し寂寥を送る
得を見る覇家臺の道。
泥深くして三尺、人の腰を没するを。

旅の雨はわびしいものである

東西ではなかなか言葉が通じない
かれこれ意志の伝わらない問答をしているよりも黙って座っていると、早蝉の越えに混じって松風の律が聞こえてくる

海に沿い小山を越えると、
赤土は霞のように海に連なっている
ふと悪臭が鼻をつくので気がつくと
このあたりの人家で燃やす石炭の煙である

筥崎神廟

万松は海を抱き、波はめぐるごとく渦をまき
あたかも青函玉鏡寒のようである
文徳の武威はとこしえに輝き
一神廟は三韓をにらんでいる

頼山陽が箱崎にてつくった詩は

廟門岌業長瀾に面す
仰ぎ見る彫題碧湾を照らし
とこしえに神威によって戎狄を伏す
新羅、高麗は指揮の間

太宰府神廟

おそれ多くも咎をうけた大賢
鐘声瓦色、当年を想う
風雷自ら示す菅公の徳
誰道冤を訴え上天に祈る

観音寺

千里を飛ぶ梅、一夜の松
痴人、夢をはなせばまた何によりてか
観音寺の内にその日を憶う
今はただ偲のみ、その韻々たる雨中の鐘の声

太宰府より三日もかかって越した高い山も肥前、佐賀にいたると道も低平になっ
た。
一面の麦畑が続き、おりからの風に波のごとくうねっている。
一箇所、高くなって木の繁っているところが佐賀城である

嬉野駅温泉

さすがに名湯、三度も入ると足も軽く、長旅の疲れを忘れる。
まことに心身さわやか。

朝仙岳

柄崎駅にあり、二峰対峙して、奇秀飛ぶが如し

肉眼でみる岳は
誰ぞ知るこれ二仙なる
相対して談ずるは何事ぞ
まさに朝、上天に謀るを

宝満山に高橋公を懐かしむ

山、宰府の後にあり、高橋紹運戦い守に、士卒一りとして敵に降るものなし

大村を封内をすぎ、見るところを書す

満山は黄色く麦が稔り、雲隣に雲が連なっている。
農力は充分で、国は貧しくない
きっと、これは藩宗の礼を譲するところなのだろう。
旅人の馬をひく人、牛をひいた農夫にいたるまで、
行き交う人はていねいに頭を下げて通る。

麦稔る大村藩をすぎ、ここからまた海路の人となる
彼杵から舟に乗って長江についたが、その舟の中でのこと。

たまたま漁船に乗って港をでた
竿でわたる大村湾
水は思わず掬ってみたくなる青さ
むこうに見える山は、
これはもう誰に聞かなくてもわかる
いうまでもなく雲仙である

夜浦上の農家に投宿す

今夜は浦上の農家泊り

藁を敷いただけの寝床には布団はなく
なかなか夢を結ぶどころではない
心尽くしで出してくれたこの浴衣だが
夏というのに、なんという寒さ
窓に貼った紙は全部破れてしまっており
夜空の明かりが入ってくる
幾つかの星が枕の上に瞬いている

豊前、筑前、肥前を経て長崎にはいる

客船で小倉についたのは朝だった。
筑前を経て肥前まで何日かかっただろう
巨海にしばし目を奪われてなんど足をとめただろう
奇山にであうごとに人にその名を尋ね
またその地の食事は珍しく美味である
僻土の人たちは人情が厚く、
行き到って、きわまるのは、華の地
万家は画のようで、舟の明かりが波に漂っている

余録と光波の長崎滞在と交友はつづく。



●716 千人坊主

2006年06月04日 | 日本の山車 左甚五郎
 大久保彦左衛門が、江戸城で甚五郎の彫刻を自慢したところ、これを聞いた島津の殿様が難題をもちかけた。「五寸角の木に千人坊主を彫ってくれ」というもの。
 「名工ならこれくらいできるだろう」
これをきいた大久保彦左衛門、よせばいいのに安請け合いしてしまった。
さっそく甚五郎にこの彫刻を注文をしたところ、あっさり断られてしまった。
困った彦左衛門、これを彫っても輪わないと、天下の意見番を返上しなければならない。
「さあてどうしたものか?」

ここまでが浪曲でよく知られる甚五郎の千人坊主。このあとどうなったか?