暘州通信

日本の山車

00035 長尾春祭

2006年06月27日 | 日本の山車
・上ケ宮本車

・玉貫玉神車

・馬場長北車

・小迎鳳凰車
倒立からくりを演じる。猩々の面をつけるこの山車のからくり戯は、大唐子が酒樽の上に逆立ちして酒を呑み、酔うほどに酩酊すると、顔が猩々に変わる。その後、醒めるとまたもとの姿に戻り、小唐子を肩車をする。小唐子は肩車の上で天井から下がる太鼓を叩き、そのあと、虹梁から下がる巻物の紐を左手でつかむと大唐子から離れ巻きものが開き小唐子が宙づりになると人形の奉納は終る。一体の大唐子人形が逆立ち、面かぶり、肩車と三種類の演技を見せるからくりは他に例を見ない。この人形は江戸時代後期に名古屋の玉屋庄兵衛の作と推定されている。

・市場神宮車

・下門八幡車

・市原懸車

・東大高知里白車

・富貴本若車

・大足蛇車

・富貴市場天王丸

富貴部の祭礼 四月 山車は四臺。
大足部の祭礼豊石神社、七月下旬 一臺。
長尾部の祭礼武雄神社、四月中旬 六臺
大足の夏祭のほかはすべて春に行われる。
山車は「知多型」で、唐破風の屋根が前檀にも付属する車輪は内輪で内輪を「うちわ」とよんでいる特に、東大高と大足の山車は、知多形の古い形を残す勾欄は擬宝珠柱で桁をとめるもの擬宝珠柱を抜いて跳ねる「跳勾欄」になるものいずれもある。
また、上部で跳ねても下臺では柱でとめているものもある。
また、透彫の彫刻を入れるものがある。
前棚の大きさにもかなりの大小が見られる。
異色のものは、上段に船を飾るもので、この山車は他の組の山車のように車号に「車(しゃ)」がつかず、「天王丸」と上部の船の名を山車名にしている。
仕上げは、白木のままのもの、黒漆塗のもの、材料は欅材、唐木などを用いる。
御幣をたてるもの提燈をつけるもの提燈丸形小田原形。

00027 秦荘堅井大宮曳山祭

2006年06月27日 | 日本の山車


曳山は日野祭、水口、近江八幡に見られる露臺式の山車。露臺に作り物の人形、松などを飾る。曳山に酒を積み込んで飲みながら陽気に曳き回す。
宮入りは道筋がまっすぐになったところで激しく往来し、宮入りのあとも境内を豪快に曳き回す。どの曳山にも縦横自在に動き回れるよう長い横棒が付けられている



00028 知立祭

2006年06月27日 | 日本の山車
市内にはかきつばたで有名な八橋がある。
浄瑠璃で人形芝居を演じる文楽は各地にあるが、山車藝能として行うのはこの
知立だけで、からくり人形も本職の手を経ず町内の人が自ら作っ演じてきた。江戸時代(一七四七年)にはじまりおよそ250年の歴史があり、国指定重要無形民俗文化財の指定を受けている。
長い歴史に育まれてきた歴史遺産が多くあり町内記録によると首(二四一点)、衣裳(五八六点)などが保存されているという。
祭が近づくと各町内がが一斉に祭一色となり、五町寄、本宿、唐繰宿、梶棒宿、囃子宿と会所をきめてそれぞれ役割を分担する。
江戸時代には、四つの町の山車の上臺でからくりが上演したというが、現在は西町のみが「一の谷合戦」をおよそ十名によって人形を操り上演している。
近年は祭り以外にも上演される機会が多くなった。

町内資料を借覧すると、藝題と公演記録はつぎのようになる。
一六五三(承応二)四か町がからくりを知立神社に奉納(上演)
一七四七(延亨四)「紅葉狩釼之本地」を奉納
一七五四(宝暦四)大からくり「百合若高麗軍記いつくしま詣ふて」を奉納
一八〇二(享和二)「くわいらいし」「聖徳太子絵伝記」を奉納
一八〇四(文化一)「一の谷合戦」を奉納。
一八二二(文政五)竹田大からくり「敵討巌流島山ノ段」を奉納
一八三八(天保九)「平治合戦」を奉納
一六四六(弘化三)新からくり「百合若高麗軍記嶋ノ段」を奉納
一九一六(大正五)「平治合戦」最後の上演
一九四八(昭和二三)「一の谷合戦」が復活するl
一九六七(昭和四二)「知立のからくり」県指定文化財となる
一九六八(昭和四三)国立劇場に出出演
一九六九(昭和四四)朝日テレビ・関西テレビに出演
一九七〇(昭和四五)NHKテレビ・CBCテレビに出演
一九七二(昭和四七)名古屋テレビ・NHKテレビ・日本テレビに出演
一九七三(昭和四八)日本からくり展で「平治合戦」のからくり人形を展示
一九七八(昭和五三)NHKテレビに出演
一九七九(昭和五四)「知立のからくり」が国の選択無形民俗文化財の指定を受ける
一九八四(昭和五九)名古屋城博「からくり上演」
一九八六(昭和六一)NHK「のど自慢」に出演
一九八八(昭和六三)世界人形フェステイバル'八八にて上演
一九八九(平成元)世界デザイン博覧会にて上演
一九九〇(平成二)国指定重要無形民俗文化財の指定を受ける
一九九一(平成三)「愛知の山車からくり文化展」にて上演
一九九二(平成四)NHK「どんどんふるさとプラザ」に出演世界人形劇フェステイバルにて上演(スロベニア・イタリア海外公演)
一九九三(平成五)全国生涯学習フェステイバル人形展示(吹上ホール)キャッチ開局一周年記念生番組に出演
一九九四(平成六)わかしゃち国体「からくり夢工房展」にて上演
一九九八(平成一〇)国際人形劇フェスティバルにて上演(ポーランド公演)

二〇〇三 高山市文化会館で行われた「からくりフェスティバル」にも出演している。



00026 飛騨古川祭

2006年06月27日 | 日本の山車
起こし太鼓
起源と目的はは不明といわれる。
以前は巨大な舁山だったがいまは車輪を付けて曳いている。祭前夜半に太鼓を打って氏子町内を舁いて回り、祭を告げる触太鼓で、町内を通過するまでにこれを請ける「付け太鼓」で答えた。しばしばこれが間に合わないことがあり、ひと悶着おきることがあった。
太鼓臺の形式は種子島、隠岐、四国の一部、和歌山県などにみられる形式に近い。
長浜祭にも「起こし太鼓」がある。

山車八臺を曳く。当初古川気多若宮神社 に屋臺が建造されたときは、金亀臺(玄武)、朱雀臺(朱雀)、青龍臺(青龍)、白虎臺(白虎)四町・四神が揃っていた。
長浜からはじまる狂言山は、日本海側を北上して小松、石動(小矢部)、礪波、入善にいたる山車の上で歌舞伎が行われたが、古川の屋臺にもその影響があった。現在も白虎臺は舞臺をもち、子供歌舞伎が演じられる。この影響は初期の高山祭にも見られ、川原町で宮本をつとめた青龍臺では、娘道成寺が演じられ、ひかにも吉野静、義経千本桜、恩雀が上演されている。

・樂臺 向町組
古くは朱雀臺があった。天保十一年(1840)、二之町中組より古い屋臺を譲り受けたこの屋臺はしばらくして廃臺明治五年(1872)再興され、黄鶴臺と改名された。
明治十六年高山の一本杉白山神社の神楽を譲り受け、神楽臺と改名した。しかしこれも数年で破損し、明治二十二年修理した。
工匠は村山英縄(むらやまえいじょう)、西野彦次郎(高山)の両名による。
彫刻は蜂谷理八が前面二体の獅子を彫る。
大正十四年大修理を行う。
このときの工匠は西野松之助、吉野久助。
このとき両側に獅子の彫刻が付加された。
昭和五十六年高山の元田五山により彫刻が補われた。
上段の中央に枠をたて、直径一メートルあまりの金色の大太鼓をつり、枠の上には二羽の大鳳凰が向き合う。
後ろには二本の鉾に神旗がつけられる。
上段には烏帽子、直垂の伶人が五人搭乗して奏楽する。

・金亀臺
古川二之町二丁、三丁の屋臺
安永五年金亀臺組に屋臺建造の「定」書きがある。このほか屋臺建造記録がよく保存されている。
金亀臺の建造は天保十二年。
谷口與三郎
谷口與鹿
飛騨の国大工惣領宗恭
天保十二年辛年晩春
谷口宗恭は京都の豊岡殿より許されて「権守」を名乗る。
見送りの上桁に谷口與鹿の二体の黒人の彫刻ががある。
下段内側に幕がある。
金亀臺の飾り金具は京都で製作された
金鋪注文書
取調書
古河二番町二丁目三丁目組中
天保十二年辛年晩春
とある。

・晴曜臺
文政年間初期には「扇子臺」と呼ばれていたが改名された。現在の屋臺は昭和十六年の建造。
見送りは「海浜老松図」今尾景祥の画
工匠は地元古川町の上谷彦次郎
彫刻は富山県井波の大島五雲、岡部圭秀による。
塗師は古川町の渡辺正八と神出貞三
町内が上組、下組にわかれたとき、屋臺の所有をくじで決めたがこのくじ引きで上組があたって上組の所有となった。このとき晴曜臺の臺名に変わった。
明治二十六年例祭に曳行中転倒して大破するという事故が起こった。早速改築に着手した昭和八年から十六年二かけて大改修をした。
工匠は古川の上谷彦次郎、
彫刻は井波町の大島五雲が上段の鷹
岡部圭秀が下段の波と千鳥、龍、鯉、亀
名古屋の岡田芳貞が中段の牡丹に唐草
塗師は渡辺正八、神出貞三
見送りは今尾景祥の「海浜老松図」と、旧公爵で、もと内閣総理大臣の近衛文麻呂が
昭和十五年が、紀元二百六百年に当たることを記念して書いた「八紘一宇」である

・青龍臺 殿町組
福禄壽のからくりがあり謡曲の鶴亀にのせて所作が行われる。かって高山下二ノ町鳩峯車組が屋臺を再建したときこの大津絵のからくりのみ譲り受けた。屋臺は金山町下原(現下呂市)に譲られ現存する。
天保六年「黄鶴臺」を「玄翁臺」と改名する。高山の山王祭の黄鶴臺を譲り受け、玄翁臺と名を改めた。殺生石にちなみ、仙洞御所にあらわれた九尾の狐を玄翁がみちのくの石に封じるからくりも一緒に譲り受けたというが話が伝わるのみ、記録がない。
安政元年大改修をして、青龍臺臺とあらためた。
組立式構造であったため、破損がひどく、また老朽化したこともあって、昭和十八年大改修した
棟梁は中村房吉、大工は住井兵太郎、直井孫二、
鉄金具は山腰泰次郎、
彫刻は富山県井波町の岡部圭秀、
一部は、高山の本母芝之助(ほのぶしばのすけ)
塗装は石川県輪島の「稲忠」稲垣忠右衛門。稲忠は現在輪島市内で「きりこ会館」を開設している。
見送りは京都の堂本印象の墨絵で画題は「天拝の龍の図」、
金具は昭和三十九年より高山の不破健人により補修された。
上段の機関樋のうえで福禄寿と唐子の人形からくりが演じられる
大津絵の「外法の梯子剃り」
二十八条の綱により操られる
謡曲の「鶴亀」ではじまり、童子が福禄寿のうしろに梯子をかけて肩の上に上り
掛け声と三味線の囃子にのって踊る
その後、福禄寿の左手にある亀の甲が割れて中から鶴が羽ばたき、口から赤い短冊形の
旗が飛び出し、金銀色紙の紙吹雪が舞う。
複雑巧妙なからくりである

・白虎臺
古い形式の屋臺。
前にせり出す構造の舞臺があて、子供歌舞伎が演じられる。
近年改修された。

・鳳凰臺
はじめの屋臺は、文化年間にはすでにあったといわれる。
古くなって危険になったため、明治二十四年に廃臺した。
大正六年新築に着手し、十一年に完成した。
棟梁は高山の初代、村山群鳳。
彫刻は下段の龍の内前面が群鳳、側面が富山県井波町の大島五雲
ほかに南部白雲作の彫刻がある
塗師は和田卯之助
金具は町田長之助、同吉太郎
見送りは長谷川玉純の「鳳凰飛舞の図」
この見送りは枠の上部を二匹の飛龍がくわえている
屋臺先の上で組内の児童が歌舞伎を演じた時代がある
大正期を代表する屋臺
この屋臺建造に当たっては、飛騨から、「女工哀史」で知られる、糸ひき工女をうけいれていた、信州諏訪の製糸会社よりも寄進があったという

・龍笛臺 二之町下組
最初の屋臺は安政年間組内の小谷屋又兵衛が世話人になって創建されたと伝えられる
現在の屋臺は明治十七年着手し、十九年に完成した。
大工棟梁は、高山の谷口宗之、宗俊
ともに延恭の子である
彫刻は谷口宗俊と、
信州諏訪の清水寅吉が、下段の龍、鳳凰、麒麟、玄武を彫る
飾り金具は京都の野沢卯助、
塗師は古川の長瀬清兵衛、渡辺正八
見送りの「雲龍図」と天井絵は、高山出身の垣内雲りん
中段の大幔幕は唐土古渡りのしょうじょう緋と伝えられる
古川の屋臺中もっとも大型
屋臺先芝居を演じていた時代もある
両側にからまる昇龍、降龍が目につく

・麒麟臺
弘化三年ころ、高山上二の町上組から石橋臺を譲り受け、改名して麒麟臺として
曳行していたが、元治二年の大火で焼失した。
その後は休臺していたが明治十四年高山の龍神臺を入手した。
しかしこれも大正十三年に廃臺。
その後九年をかけ、昭和八年に新築したのが現在の屋臺である。
棟梁は二の町の上谷彦次郎
大工は中村房吉
彫刻は井波の大島五雲
中段の牡丹は名古屋の岡田芳貞
金具は高山の井上芳之助
塗師は長瀬清兵衛、渡辺正八
屋根の上の鳳凰は以前の屋臺のものを使う
見送りは古川出身の画家玉舎春輝
「日本武尊の草薙図」
もう一幅が、前田青邨
「風神雷神図」
からくりがあり
唐子人形が謡曲の石橋にあわせて花籠をささげ獅子がしらをかぶって舞うと五色の紙片が美しく飛び散る



・金亀臺


山車語彙 朱雀臺
白虎臺
風神雷神図」
井上芳之助
井波町
一本杉白山神社の神楽を譲り受け、神楽臺臺と改名
稲垣忠右衛門
雲龍図
延恭
黄鶴臺
岡部圭秀、
屋臺先芝居
屋臺建造の「定書」
歌舞伎を演じた
外法の梯子剃」
垣内雲
紀元二百六百年
吉野久助、
玉舎春輝
近衛文麿
元田五山
玄武臺
山腰泰次郎、
住井兵太郎、
小谷屋又兵衛
上谷彦次郎
神出貞三
晴曜臺
清水寅吉
西野松之助、
西野彦次郎
青龍臺
石橋臺
扇子臺
前田青邨
奏楽
村山英縄(むらやまえいじょう)、
村山群鳳
大島五雲
谷口権守
谷口與鹿
谷口宗恭
谷口宗俊、
谷口宗之
中村房吉
町田長之助、吉太郎、
長瀬清兵衛、渡辺正八
長谷川玉純
直井孫二、
渡辺正八
堂本印象
南部白雲
二十八条の綱
日本武尊の草薙図
八紘一宇
福禄寿
蜂谷理八
豊岡殿
鳳凰臺
本母芝之助(ほのぶしばのすけ)
野沢卯助、
謡曲鶴亀
龍神臺
龍笛臺
輪島の
伶人が五人乗る
和田卯之助
麒麟臺