備忘録として

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写楽

2005-12-10 18:01:03 | 江戸
モラエスの墓のある潮音寺の町内の寺に東洲斎写楽の墓があるのだけれど、これは怪しいらしい。最近、埼玉県の法光寺の過去帳に写楽といわれている阿波徳島藩のお抱え能役者である斎藤十郎兵衛の記録が見つかってますます怪しくなった。彼は江戸住の能役者で斎藤家の菩提寺が法光寺(もとは築地にあった)ということで、徳島には葬られてはいないということがほぼ判明したからだ。
天才浮世絵師写楽は誰かという謎は日本史3大ミステリーのひとつで、残りの2つは邪馬台国の場所と坂本竜馬の暗殺者の謎である。
写楽については江戸時代末期の考証家斎藤月岑の”増補浮世絵類考”に”写楽 天明寛政年中の人 俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者也 号東洲斎”とその人物がはっきりと記されていたにも関わらず、浮世絵類考の信憑性が疑われたことや十郎兵衛の存在そのものが確認されていないことなどから市井の研究者(大学研究者は少ない)によって様々な同時代人が写楽に比定されている。私の好きな北斎もその中の一人だ。北斎はその生涯で30回も名前を変えているので写楽と名乗ったことは否定できないかもしれないが生涯を通しての北斎の画風や技巧は写楽とはまったく違う。
私が写楽に興味を持つきっかけになったNHKの番組では版画家の池田満寿夫が歌舞伎役者の中村此蔵が写楽という説を掲げていた。この番組が放映されたのは昭和59年ということだからもう20年も前のことで、版画家の勘として写楽は自画像を残しているはずだという前提で写楽作品の特徴を分析し此蔵に辿り着いた。東洲斎という号が此蔵と関係することや写楽という名が楽屋(役者の控え室)から写すことから付けられたということなどが根拠だったと記憶している。写楽の謎が何たるかを知らなかった私は番組が終わる頃には池田の論証にすっかり洗脳されていた。
今では内田千鶴子や九州大学の中野三敏教授などの説に触れたり、明石散人の”写楽はもういない”を読み、斎藤十郎兵衛でないという証拠や他人の誰かが写楽であるという新たな史料が見つからない限り日本3大ミステリーのひとつは一応決着したと考えている。ただ、10ヶ月という短期間に150点もの作品を世に出していることや画風が初期と後期で大きく変化していることなどの謎はまだ残っている。



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