一言、云いたいね

社会の状況を見て一言云わせて貰う

偽装され易い刑事責任能力

2013-07-18 05:34:59 | 日記

最近、凶悪犯罪が発生すると必ず出てくる言葉が「刑事責任能力」である。刑法には心神耗弱者、精神障害者、などの犯罪は減免措置が規定されている。問題は、それを診断する医師である。医師の診断の結果が一つしかなければ問題ないのだが、医師によって診断結果が異なることが多くある。何故このようなことが起きるのか。それは人間の内部を診断しなければならないからだ。精神、神経といった目に見えないものをどのような形で診断するのか。心の中を透き通してみることが出来る医師は存在しない。全てが状況証拠になる。

表に現れた行為、言語、動作、などは誰が見ても判断することが出来るが、人間の心には形が全くない。考えていることを医師が何を以って判断するか、それは医師の経験と能力だけである。そこから導き出された結果は、医師がどのように評価するかである。評価は、犯罪行為に関しては曖昧なものであってはならない。要は「イエス」か「ノー」である。刑事責任能力を問えるかどうかの判断基準は、犯罪が実行されたときの心身である。診断したときの心身ではない。ということは、実際のところ解るはずがないのだ。診断時に、幾ら心神耗弱者だといっても犯罪実行時に果たして同じ状態だったかどうかはわからない。逆のケースもある。

最近、良く見られるのは偽装である。心神耗弱者、精神障害者のように振舞う、ということを犯罪直後に行うことによって、警察や検察を欺くのである。犯罪者は、巧妙に犯罪実行前から、どのように振舞えば刑事責任能力が問えなくなるか学習しているのである。この学習によって、犯罪実行時に心神耗弱者、精神障害者のように周囲に見せれば完全に作戦は成功する。そして、その後の医師による診断も心神耗弱者、精神障害者ということに導きやすくなるのである。また、裁判が行われている間は、恰も心神耗弱者、精神障害者のような振る舞いを演技すればいいのである。最もよく解るのは、裁判で無罪になって、その後の生活をチェックすればいいのだ。もし、通常通りの生活を行っているとしたら、ほぼ偽装であったということだ。

通常、裁判が終了した後は、犯罪を犯した人間は通常通りに生活をする権利を持つ。しかし、心神耗弱者、精神障害者という病気であったら普通の生活が簡単に出来ないはずだ。それが出来るのであれば、心神耗弱者、精神障害者ではなかった、ということになる。過去の犯罪で、心神耗弱者、精神障害者ということで無罪になった人間の追跡調査を行っているのだろうか。被害者にとっては、誠に恐ろしいことに遭遇してしまったのだが、犯人がもし無罪だったら、いったい何処に不満を持っていけば良いのか。犯罪被害者が日本では加害者よりもひどい扱いを受けているのではないか。加害者の人権ばかり問題視されて被害者の人権は無視される。こんな国があっていいのだろうか。死刑廃止を訴えている弁護士などは、被害者にならなければ被害者の気持ちは永久に解らないだろう。

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