一言、云いたいね

社会の状況を見て一言云わせて貰う

インチキが罷り通る社団法人は許せない

2011-05-31 09:43:20 | 日記
「無給の理事らへ計3000万円」と云う記事が出ていた。大阪での出来事だという。これって、何処の社団法人でもやっている可能性が高い。隠れ経費と云う形で支給しているものである。特に、天下りが多くいる社団法人では、名目がどんな形で起こされているかわからないくらい巧妙だという。
何故このようなことが罷り通ってしまうのか。税務署は、このような隠れ経費で落されたお金に対して、しっかりと所得税を課しているのだろうか心配だ。若し課税を逃れていたとしたら、悪質な脱税行為になる。人件費として処理されていないという脱法行為の上に、所得税を課されていない方法で支給されているとしたら、極めて悪質なものである。
税金遁れの方法が罷り通るということは、税理士などの専門家によるアドバイスがあったのではないだろうか。素人が考えたにしては巧妙すぎるのである。若しかすると元税務署に務めていたものが顧問税理士に採用されて、このようなことになったのではないだろうか。
全国の社団法人を疑うべきものである。この社団法人だけがやっているとは到底思えない。インチキをして、脱法行為と脱税行為を働いている人間に対しては、厳しい処罰と、追徴金を課すべきである。また、アドバイスをした税理士がいるとしたら、その税理士の資格は剥奪されるべきものである。
しかし、今時こんなことが罷り通ってしまうのは誠に不思議である。税務署は節穴になってしまったのか。まさか税務署がぐるになっているとは云いたくない。厳しく追求してもらいたい。また、他の社団法人もしっかりと調べて欲しい。我々庶民から厳しい税金を取るだけでなく、こんなインチキ社団法人はもっと厳しく取り立てて欲しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被災地の復興、考え方の相違をどうするか

2011-05-31 05:25:56 | 日記
東北大震災で大津波に襲われた被災地の復興が始まろうとしている。その地に永く住んでいた人にとって、街造りをどのように行うのか、関心が高いのは当然のこと。問題は、住民と行政との話し合いでどのように決められるかである。過去の震災で多くの犠牲者を出している、と云う事実は消すことが出来ない。此れを将来に渡って100%保証するには、高台への引越しは仕方のないこととしなければ生けないのか、と云うことである。
街造りの方法によっては、高台へ避難しなくても可能な方法もないではない。10メートルの高さの堤防は、今回の津波で、余り意味がない、と云うことが判明している。堤防の高さを高くすることもあるが、それよりも街造りの中で避難場所を確保するほうがいいのではないかと云う考え方もある。或は、低地には住居を造らないで完全に高台に引っ越すという方法。
住民の選択と行政の選択が一致すればいいのだが、これが中々難しい。多くの命を奪った大津波は、今後も来ない保証はない。同じ町に住みたい、と云う住民の気持ちも理解できる。街造りをどのようにするのか、を早急に決めなければならないのだが、行政が未だ機能していないところもあり、大体、国が指導的な立場にならなければならないのに全然動かない。
復興に着手できなければ、住民の生活は安定しない。国会は、今時、内閣不信任案を出すという馬鹿げた行動に出ている。被災住民を救おう、などと云う考え方に傾かない国会議員たちは何のために国会議員になっているのだろうか。国のために働かない国会議員は必要ない。内閣不信任案ではなく、国会議員として辞職をすべきである。必要なときに役に立たない国会議員は、はっきり云って要らない。
これから暑い夏を迎えるが、その直ぐ後には、寒い冬が直ぐにやってくる。被災地が復興に手をつけられなければ、今年の冬はどうするのか、と云うことだ。このまま何もしないで、避難場所で暮らせ、と云うことか。
少なくとも、住民と行政が意見を一致させて、早く復興に着手すべきである。生活基盤をしっかりしないで、このまま見過ごすことは出来ないはず。青写真が出来ないと何も進まない。復興には国からの資金援助がなければできない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運命の分かれ道になる緊急時の即時判断

2011-05-30 09:22:02 | 日記
北海道でトンネル内で列車火災事故が発生した。幸にも死者は一人も出なかった。北陸本線で起きた列車火災事故の時には多くの死傷者だ出たことは記憶している。今回の事故では何故死者が一人も出なかったのだろうか。列車内の放送では、事故当時、「そのまま待機してください」と云うことだったという。若し、この放送が真実で、そのまま待機していたら多くの死傷者が出たはずである。
緊急時の即時判断と云うのは大変難しい。その場にいないと、状況が解らないからである。列車の場合、車掌はどの位置にいたのか、と云うことが問題になる。火災が発生した場所にいた乗客にとっては、その場所にいること自体危険が迫ってきて危ないことが最もよく解るのである。例え、車掌がどんな指示を出そうとその場を離れることが必要であったはずである。
今回の列車火災事故では、乗客の判断が優先して列車の外に避難して命が救われた。結果としては、乗客の判断が正しかったわけである。車掌や運転手が、状況を詳しく見ることが出来なかったという状況では、乗客の判断が優先しても仕方がないのである。但し、問題は結果が良かったからいいのだが、逆の結果が出た場合には、誰がどのような責任を取ることになるのか、と云うことである。
緊急時の即時判断では、今回の東北大震災の時にも同じようなことが起きていたはずである。自治体などの判断を待つまでもなく、個人が積極的に避難した人たちも多くいたと云う。個人の判断が結果としえ正しかった場合もあろうが、そうでない場合もある。緊急時には避難する場所や逃げ道も問題となる。その場にいる人の判断に任せることが多くあるはずだ。
運命の分かれ道は、緊急時には得てして起き得ることである。誰の判断に従うかは、本人の責任になる、と云うことが結論である。自己責任が問われるときに、他の人に責任転嫁する人がいるが、そのようにならないためには普段から自分の行動には注意をしなければならない。運命の分かれ道で、自分が選択した道が正しいと信じることが重要なのである。他人任せにはしないと云うことだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸市民は原発推進を選んだ

2011-05-30 05:17:11 | 日記
水戸市長選挙が行なわれ、自民党推薦の市長が当選を果たした。自民党は現在でも原子力発電を推進を行なっている党である。大きな事故を起こした東京電力の原子力発電所も、自民党時代、大きな期待をこめて建設をしたものである。その最も大きな役割を果たしたのが中曽根元総理であった。
水戸市民が何故原発を否定しない、肯定をする自民党推薦の市長を選んだのであろうか。福島原子力発電所に極めて近い距離にある水戸市が、今回の事故に最も敏感であったはずである。市民としては何が、そのような行動にさせたのであろうか。民主党や共産党は駄目だから、と云う単純な動機からだろうか。自分たちの生活に原子力発電は欠かせない、と云う理由からだろうか。
若し水戸市民が原発を推進しないというならば、何故原発を否定しない自民党推薦候補を当選させたのか。市民感情と云うのがどこにあるのか、判明しない。誰を選ぼうと水戸市民の勝手だ、といえばそれまでだが、気になることは確かである。もう2年以内に国政選挙が行なわれる。その時に、国民は何を持って政党を選択するのか、と云うことが気になる。
日本国民が今問題としているエネルギー政策をどのように真剣に考えているのか、判明する。原子力を推進している政党なのか、他の手段で代替エネルギーの開発推進を真剣に行おうとする政党なのか。現在の菅総理の1000万戸に太陽光発電パネルの設置を呼びかけたが、本当にそれが可能なのかどうか、疑問符がついている。この問題は、単に設置するというだけでは事が進まないからである。
専門家を交えて、代替エネルギーについて、とことん議論をすべきであるが、総理大臣は理科系であるという自負が強く、問題点が見えていることに気がついていないのかもしれない。これは、水戸市民の考え方と似ている。水戸市民は、若しかすると原発推進ではなかったかもしれないが、立候補した人の言葉に惑わされてしまった可能性が高い。このような傾向は、太平洋戦争の勃発する前の国政選挙のときにも起きていた。国民が何故戦争を肯定していたのか、当時の国民は殆んど本当の意味の戦争を理解していなかった。
水戸市民の選挙に対する考え方が、今後の国政選挙に及ぼす影響は極めて大きいといえる。日本人が本当に原子力発電の行く末を考えているかどうかなのである。口では原発反対を唱えながら、選挙では原発肯定派に投票をすると云う行動である。今までの選挙でも、考えていることが極めて単純であることが結果として解っている筈。衝動で物事に当ってしまうという民族なのである。間違いを何度でも繰り返す、と云う民族でもある。此れは水戸市民だけではない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小学校で習う漢字、凡そ1000字

2011-05-29 08:36:46 | 日記
現在の小学校では凡そ1000字の漢字を習うことになっている。多いのか少ないのかは良く解らない。漢字教育がどのようにされているのかもよく知らない。漢字を単体で覚えるのではなく、文章の中でどのように使われているのかをよく理解しながら習うのが、その漢字の意味を最も理解しやすい。
ちなみに、明治時代の尋常小学校ではどのくらいの漢字を習っていたのだろうか。大正元年に発行された「国定漢字諺解」によると、凡そ1360字とある。今よりも多くの漢字を習っていたことになる。漢字には、その成り立ちが必ずある。元々中国から渡来したものであるから、中国の書物には漢字について基本的なことが書かれたものがある。それが書かれているのが「説文解字註」と云う本である。
漢字の難しい由来は別にするとして、日本語離れしているといわれている現在、あるいは、本離れしているといわれている現在、今後、日本語としての漢字がどのようになっていくのであろうか。中国では、「略字」が進みすぎてしまい、漢字本来の意味が極めて薄れてしまった。日本でも略字が進んで入るが中国ほどではない。今の若い人たちにとって、漢字文化をどのように考えているのか、と云うことである。英語教育が小学校から取り入れられているという時代に、本当に漢字文化が保てるだろうか、と云うのが本音である。
テレビを見ていると、漢字の間違いがよく見受けられる。それは、ワープロという機能が強く働いていて、人間の思考力を少し低下させているからである。文章の流れから、漢字の意味を考える、と云う単純な機能が失われつつあるのであろう。同音異義の漢字が多くあることも原因がある。似たような漢字が多くあることも原因としている。しかし、今、小学校で或は中学校までに習う漢字をしっかりと身につけていれば、テレビで見ているような漢字の変換ミスは、もう少し防げるのではないかと思うのだが。
自国語である漢字をもう少し大切に扱うことも必要に思う。確かに横文字は大事かもしれないが、日本語をしっかりと身につけることをして欲しい。しっかりと日本語を勉強している外国人も多くいるのだから、彼らに負けては恥ずかしいと思いたい。英語も大切だが日本語も大切なのである。日本人であることを忘れないで欲しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする