一言、云いたいね

社会の状況を見て一言云わせて貰う

認知症でも免許が更新されてしまう今の制度、事故の責任は何処になる

2016-11-29 04:37:30 | 日記

最近、高齢者の自動車事故が多発している。その中でも認知症に近い高齢者も含まれている。完全に認知症であれば免許の更新が難しいというが、それでも取れてしまうケースが多々あるという。この場合、死亡事故を起こしたら一体誰が責任を取るのだろうか。運転者に責任能力を問えなければ事故で亡くなった人は、それこそ犬死になってしまう。この問題は、事故を起こした人に自己責任を問えなくなった場合に、その親族が責任を取ることになるのではないか。

非常に厳しい見方だが、誰も責任が問えない、という事は絶対にないはずだ。事故が起きないようにするためには、責任の所在をしっかりと決めておかなければならない。責任を取ることが出来ないなら、運転をさせなければいい。本人が幾ら自動車の運転をしたいといっても認知症に近い状況、或いは認知症になっている状況を考えたら、運転をさせることが間違っている。

但し、今の日本では、自動車がなければどこにも行けなくなる、という状況をどのように解決するか、である。過疎地などは、交通手段が殆どない所もある。過疎地でなくとも買い物弱者という状況になってしまった地域もある。交通手段の殆どない地域に対して行政は何もしなくてもいい、というわけにはいかない。現在の法律では乗合タクシーは基本的に認められていない。これを過疎地に限って何らかの形で認めるように出来ないものか。

都会地では考えられないことも過疎地ではいくらでもある。便利な土地に住んでいる人には過疎地の不便さは理解できないだろう。何かをやろうとすれば必ず法律に抵触してしまう。法律は都会地に住んでいる人を中心に考えて作られている。過疎地を救うには法律を改正するのではなく、過疎地だけを限定して適用できるような法律、規則を作らないと対応できないだろう。どのように限定するかは土地土地で造らないといけない。

過疎地はこれからもっと高齢化が進んで行くに違いない。都会地に集中してしまった人たちは過疎地に行くことは殆ど無くなるだろう。過疎地をもっと有効に使うことも考えた方が良いかもしれない。それには交通手段を何とかしないといけない。これは、これからの日本をどのようにしていくか、という事になるかもしれない。過疎地の高齢者が自動運転装置を使って自動車を運転できるようなる時代も近付いている。

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教師としての資質

2016-11-28 05:31:35 | 日記

最近、生徒がいじめに会って自殺することが多く見受けられえる。その際、担任であった教師の発言を報道で見ていると、これが教師なのか、と思わせるようなことがある。教師の経験が未熟だ、というのならともかく、30代、40代、50代の教師が未熟だとは言わせない。通常、勤め人の場合、3年も経てばそれなりの経験を積んでいる、と見做され、ある程度責任を以って仕事をすることが期待される。教師の場合も例外ではないはずだ。特に、教師は教職課程を取得するときに教育実習を行うことになっている。教育実習を経た上で教員になるわけだから、普通の勤め人とは少しばかり異なる。

教師には、カリキュラムを作ることが義務付けられている。カリキュラムに基づいて生徒に教科を教えているのである。教育は、学問だけを教えているわけではないはずだ。教師と生徒との人間関係の中から様々なことを生徒は学び取る。ところが、事件が起きて教師の発言を見ていると、まるでなってない。こんな教師が生徒に教科を教えていたのか、と思うと生徒が可哀想になる。生徒はある程度教師を信頼しているはずだ。「ある程度」と書いたのは、最近の生徒は、教師を殆ど信頼していないこともある、ということを聞く。生徒と教師の関係は、師弟関係という単純なものではない。それは今も昔も変わらない。

教師の色々な発言から、そもそも教師に向いていないのではないか、と思われる人が教師になることの方が問題なのだ。教師の採用試験では、ペーパーテストに合格した人だけが教師になっている。そして、問題なのはその後なのだが、面接試験、適性検査、などは行わないのだろうか。教師の適正があるかないか、本当は重要なことなのだが。適性のない人間が教師になったとしたら、教えてもらう生徒は迷惑この上ない。生徒が不幸になるだけである。

また、年功序列、という弊害かもしれないが、管理職になる教師にも適性のない教師が管理職になることも問題である。管理職とは何か、どう言うことが問われるのかといえば、事件が起きたときに管理職がどういう発言をするかで、良く解る。管理職の適性、能力のないものが管理職面していい加減な発言をしているからだ。

教育委員会も問題が多い。教師の経験者が教育委員会の委員になっているのだが、教師しか経験がないから世間のことがさっぱり解らない。非常識発言が多すぎる。世間知らず、井の中の蛙大海を知らず、ということである。自己保身に走ることしか知らない教育委員会は、その存在意義が問われる。第三者が誰もいない教育の世界は、孤立無縁の世界である。文部科学省が教育委員会の大改革をしない限り、いじめもなくならなければ、自殺もなくならないだろう。教師の資質は、採用時に遡る。今の教育委員会のメンバーが教師の採用時の面接をやっても解決にはならないだろう。教育委員会の資質の問題でもあるからだ。

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中国と韓国は恥知らず

2016-11-27 05:20:45 | 日記

中国と韓国の今があるのは日本からのODAがあったからである。若し、日本からODAの援助がなければ、現在の中国と韓国は有り得ない。そんなこともつゆ知らず、反日を繰り返している。全くの恥知らずと言うものだ。こんな国にODAを行ったのがそもそもの間違いだった。当時の日本政府は太平洋戦争によって両国へ損害を与えたという気持ちが強かった。それを何とかしてあげたいという気持ちがあったからODAに踏み切ったわけだ。

ところがどうだ。結果として反日をより強く持つようになってしまった。この2つの国は反日を繰り返せばいくらでもお金を出す、と思っていたのかもしれない。日本の政府にも大きな責任がある。特に韓国への多額の借款は完全に間違いであった。朝鮮民族は完全に恩を仇で返してきた。この民族には日本人として1000年どころではなく、10万年、100万年でも恨みが残るであろう。その位悪いイメージを植え付けてしまっている。

恥知らずの中国と韓国には何も言うことはない。特に韓国へは、国民すべてが嫌韓と言う意識を持つようになっている。若し、持たない人がいるとしたら、その人は親戚か友人、或いは重要な取引先が韓国なのであろう。止むを得ないという事かもしれない。中国人が恥知らずなことをした大きな原因は反日教育である。小さい子供から反日教育をしたら、それがトラウマになって、催眠術に掛けられたかのように反日に動いてしまう。この状態は恐らく50年間は続くのではないか。

日本のODAの失敗例は中国と韓国の2ヶ国である。その他の国に対するODAは殆どが成功しているのではないか。勿論、問題があるODAもあるかもしれないが、それは統計上計算された範囲内のものではないか。何事も100%を望むことは出来ない。問題は中国と韓国である。それほど反に戸を繰り返すなら、今までに受けたODAの支援金をすべて日本に返還すべきではないか。金を返してから反日をやればいい。それならいくらでもやっていい。しかし、金を懐に入れて、それはそのままにして反日だけやるのは恥知らずと言うものだ。日本は恩を売ったという気持ちは持っていないが、こんなバカでアホな民族にODAで支援をしたと思うと情けない。まるで溝にお金を捨てたと同じ。

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携帯、スマホは大災害時に使えるのか

2016-11-26 05:24:11 | 日記

東日本大震災の時、携帯電話は使えなかった。中継基地が地震によって損害を受け破壊されてしまったからだ。この問題は、何処に地震が起きても起こり得ることである。中継基地が破壊された時、どのように対応するのか。移動中継車を派遣することが考えられる。しかし、移動中継車は道路が完全に使える、という前提が必要になる。大地震の時には道路が通常通り使えることは考えられない。となると、どのような対策を考えているのだろうか。

通信衛星を緊急時に使う方法は無いのだろうか。通信衛星の電波帯はすべて埋まっているかもしれない。日本は通信衛星を幾つか打ち上げている。この際、緊急時に使えるような通信衛星を一つくらい打ち上げてはどうだろうか。勿体ない、というかもしれないが、大災害が起きたら、そんなことは言っていられないはずだ。背に腹は代えられない。いつでも使えるような電波帯を一つくらいあってもおかしくはないのではないか。

日本は様々な災害が起きる可能性を持っている。特に地震は何処の場所に起きてもおかしくない。地震大国である、という事を考えると、どのような対策を取るか、常に考えておかなければならないはずだ。通信衛星はお金が掛る。災害が起きた時に、国民を安全にするためのお金であれば、決して無駄ではない。変な道路工事をする事を考えたら通信衛星を一つ打ち上げることなど問題ないはずだ。

其の外にも何かいい方法は無いのだろうか。移動中継車の小型かが出来ないものか。現在使用されている移動中継車は大きい。今の3分の1ほどの大きさ、或いは、軽自動車くらいの大きさになる事が出来ればいいのではないか。この大きさで、発電機も積込むことが出来れば幸いだ。

現在は4輪車だが、これをキャタピラー付きの車に出来ないか。雪だけでなく瓦礫の中でも移動できるようにすることが重要だ。また、日本は水害地も考えられる。水陸両用車も必要ではないか。今の移動中継車をもっと改造してできる所から実施してはどうか。災害は起きてからでは遅い。地震国・日本をもっと住みよい国にすることが必要だ。

4年後にオリンピック競技が始まる。海外から多くの観光客も訪れる。もしも地震があったら最優先に考えなければならない。移動中継車をより浴して置く事が重要ではないか。

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中国は次の戦争で核兵器を使うかも

2016-11-25 05:21:37 | 日記

『中国要請で広島・長崎削除「被害者の地位強調」』と言う記事を見て、ふと考えた。広島・長崎の原爆を中国側から見たら、戦争で単なる爆弾を投下した、と言う見方なのだろう。この国が、戦争で核兵器の被害を受けない限り、核兵器の恐ろしさは理解できないのであろう。現在の中国が何故戦勝国ぶっているのか良く解る。第2次世界大戦後に誕生した中国にとって戦勝国と言う称号がどうしても欲しいのだ。

こんな嘘が云えるところが今の中国なのだ。国連の常任理事国になったからといって特別に偉いわけではない。他の4ヶ国は確かに第2次世界大戦の戦勝国なのだ。中国が常任理事国になれたのは特別なのだ。それを、戦勝国だと言っているところが可笑しくて笑ってしまう。ウソもここまで来ると「冗談でしょう」と何処の国も言わないところが可笑しい。

大体、中国人民は本当に戦勝国だと思っているのだろうか。学校教育で本当に戦勝国だと教えているのだろうか。教科書にはどのように記述されているのだろうか。中国が今戦争をするような雰囲気ではないはずだ。しかし、中国軍部は何故か息巻いている。武器を使いたくてしょうがない。本当は何処かで正当だと称する戦争を起こして、今持っている武器を実践で使ってみたい。それが中国軍部の正直な所だろう。

其の中でも最も戦争が起きやすいのが南沙諸島であり、尖閣諸島なのだ。この2つの地域は常に一触即発なのだ。中国が常に戦闘行為を仕掛けている。人民軍の幹部トップではなく、その次のクラスの将軍あたりが故意にボタンを押してしまったとしたら戦争に発展するかもしれない。

世界が表向きは平和でいられるのは大きな戦争に発展しないからだ。多くの場所で小競り合いは何時も起きている。見えないところで戦争は何時も起きているのだ。中国は戦争をしないでどこまで大きくなるのか。金の力の方が軍事力よりも大きければ戦争にしないでも済む。しかし、油断は禁物。

今の中国は、軍部を抑えられる状態だからいいのだが、これが出来なくなったときに、75年前の日本と同じになってしまう。核兵器を使いたい軍人がどこに潜んでいるか解らない。

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