いやはや不思議な世の中になった。面接試験で愛読書を聞くのが不適正質問だと言う。愛読書があろうがなかろうが良いと思うのだが。質問すること自体不適正だというのか。何かがおかしいと感じてならない。
「愛読」とは「ある特定の書物や、ある分野、ある作家の書物、ある雑誌などを好んで読むこと」(日本国語大辞典)となっている。何が問題なのだろうか。こういう作家が好きです、こういう本や雑誌を読んでいます、と云うことを答えるのが思想信条について聞くことになるというのか。
この頃の考え方にはついていけない。面接試験は何のために行うのか。政治や政党、宗教のことを聞いたわけではないだろう。愛読書がどうして不適正なのか理解できかねる。食べ物のことなら良いのか。スポーツのことなら良いのか。テレビ番組のことなら良いのか。何を基準にして不適正と判断しているのだろうか。
判断基準には基準そのものが不適正なことも考えられる。不適正の基準が、ある特定の政治、宗教、などと繋がっているのかもしれない。だから愛読書を聞くのが不適正だと判断されている。恐らく、官僚が決めたことではないか。官僚は、殆んどすべてにおいて偏った考え方に向う傾向がある。世の中の決まりごとで、官僚が決めたことが立派だ、と思うことがあるだろうか。幼稚園と保育園、学校の基準、などは余りにも融通が利かない。「××をしてはならない」と云う項目をただ並べるだけ。
話を元に戻すと、愛読書を不適正質問にした、といっていながら、文部科学省では子供たちの「本離れ」を憂えている。厚生労働省と文部科学省の考え方に矛盾があることを誰も不思議だと感じない世の中なのだ。厚生労働省の役人は愛読書がないのかもしれない。悲しいことだな。
「愛読」とは「ある特定の書物や、ある分野、ある作家の書物、ある雑誌などを好んで読むこと」(日本国語大辞典)となっている。何が問題なのだろうか。こういう作家が好きです、こういう本や雑誌を読んでいます、と云うことを答えるのが思想信条について聞くことになるというのか。
この頃の考え方にはついていけない。面接試験は何のために行うのか。政治や政党、宗教のことを聞いたわけではないだろう。愛読書がどうして不適正なのか理解できかねる。食べ物のことなら良いのか。スポーツのことなら良いのか。テレビ番組のことなら良いのか。何を基準にして不適正と判断しているのだろうか。
判断基準には基準そのものが不適正なことも考えられる。不適正の基準が、ある特定の政治、宗教、などと繋がっているのかもしれない。だから愛読書を聞くのが不適正だと判断されている。恐らく、官僚が決めたことではないか。官僚は、殆んどすべてにおいて偏った考え方に向う傾向がある。世の中の決まりごとで、官僚が決めたことが立派だ、と思うことがあるだろうか。幼稚園と保育園、学校の基準、などは余りにも融通が利かない。「××をしてはならない」と云う項目をただ並べるだけ。
話を元に戻すと、愛読書を不適正質問にした、といっていながら、文部科学省では子供たちの「本離れ」を憂えている。厚生労働省と文部科学省の考え方に矛盾があることを誰も不思議だと感じない世の中なのだ。厚生労働省の役人は愛読書がないのかもしれない。悲しいことだな。