カクレマショウ

やっぴBLOG

清高荘物語<第2回> イチローちゃんよ永遠なれ

2005-02-23 | ■その他
オリックスブルーウェーブの「イチロー」という名前を初めて聞いたとき、私が最初に連想したのは「藤本一郎」という名前でした。それは,私の初期清高荘時代にもっとも影響を受けた人の名前です。 みんな彼を「イチローちゃん」と呼んでいました。

友人として付き合ったのはほんの半年ばかりでした。しかし,私は今も「イチローちゃん」の声や笑顔,話したことを鮮明に思い出すことができます。

イチローちゃん,常磐線の馬橋というところにある産婦人科の息子でした。清高荘の1階の住人であるマノくんの予備校の友人ということで,清高荘に出入りするようになったらしい。医学部を目指していると言っていたが、いったいいつ勉強しているのだろうといつも思っていました。年は私と3,4つくらいしか離れていないはずでしたが,顔といい,行動といい,やけにオトナじみていて,青森から上京したばかりの私にはまさに「東京の人」に思えたものです。東京の人はこんな話し方をするんだ…こんな風に遊ぶんだ…こんな風に女の人に話しかけるんだ…こんな風にタバコを吸うんだ…。実際、そんなにカッコいい顔やスタイルをしているわけではなく、着ているものだっていつも洗いざらしのシャツにジーンズなのに、イチローちゃんの一挙手一投足が洗練されて見えてしかたなかったのでした。

私がイチローちゃんに強く引かれたその原因は,自分には真似しようと思ってもできない「イチローちゃんらしさ」だったのかもしれません。自分らしさって何? 自分の本当の姿って? 他人から言われなければ「自分」の姿に気づくことができなかったあの頃。そのくせ、他人から言われたことにすぐに傷ついていたあの頃。私にとっては,イチローちゃんのあの強烈な個性が,「自分を知っているオトナ」への登竜門のように思えていたのかもしれません。

そのイチローちゃんが,知り合ってたった半年後の10月に渡米し,米国の大学に入学することになりました。その話が決まってから,イチローちゃんは馬橋の自宅にみんなを招待してくれました。その夜の楽しげな表情の写真が残っています。出発の日,清高荘一同は羽田空港(成田じゃなく)に見送りに行きました。みんなで徹夜で作った横断幕には「イチローちゃんサヨウナラ─清高荘より愛を込めて」の大きな文字。

それ以来,イチローちゃんには会っていません。元気で米国の大学に通っているという手紙は何度かもらいましたが,今はまったくどうしているかわかりません。一番親しかった友人でも消息がわからないそうです。

しかし,世界のどこかでイチローちゃんはあの笑顔をふりまいているにちがいありません。少なくとも、私にとってはイチローちゃんはそうあってくれなくては困るのです。

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2 コメント

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よみがえる80年代 (れごまま)
2005-02-26 12:37:25
こんにちは。清高荘物語楽しみに読ませていただいています*^^*

最近、テレビのコマーシャルやバラエティのBGMに80年代ロックが採用されているものがよくありますね。当時大学生だった私としては、「聞こえる」だけでいい音楽のはずが、テレビ内容そっちのけで「聴き入って」しまいます。(ここまでの内容なら、第1回のサイトーさんのところにコメントすることかも^^;)

その当時、大学の友人等が住んでいたところが、まさしくそういうところでした。

トイレ共用、風呂共用、電話はもちろん共用の公衆電話が一台(携帯はもちろん、個人で電話を持っている学生は少なかったです)、通学は自転車・・・。

でも、皆貧しかったし・・・。

地方の国立でしたから本当にいろいろな地方の方が入り混じって、都会出の人間は洗練されて見えましたね。続きを楽しみにしています。
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ありがとうございます。 (yappi)
2005-02-27 02:31:04
あの時代はけっこうありましたよね。そんなアパート。ちなみに清高荘は風呂なしでしたので、みんなで近くの銭湯通いでした。今思うと考えられないですね。風呂なしアパートなんて。ピンク色の公衆電話も1台だけ置いてありました。電話が鳴ると「誰か」が出て取り次いでくれるのでした。ああ懐かしい。



れごままさんおっしゃるとおり、携帯なんて知らなかった時代。それでもコミュニケーションはちゃんととれてたんですね。
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