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カクレマショウ

やっぴBLOG

時代錯誤の勘違い―「大阪府教育基本条例」とやら

2011-11-29 | ■教育

大阪のダブル選挙で、「橋下派」が勝利をおさめました。まあ、大阪府が大阪都になろうがなるまいが、それはどうでもいいんですが、問題は、あの「教育基本条例」です。この12月府議会で可決される見通しです。いよいよ大阪の教育があの妙な条例によって変えられていくのかと思うと、子どもたちや教員が気の毒でしょうがない。

 

橋下さん、やっぱりどこか勘違いしているとしか言いようがありませんね。政治が教育に口出しをしない、それはこの国の教育制度の大原則だったはずです。政治家の思想で教育政策がころころ変わってしまうことは絶対避けなければならないこと。そのために教育委員会のレイマン・コントロールがあるわけだし、ま、ちゃんと機能しているかどうかは別としても、原則としては、教育の政治主導があってはならんのです。

 

ところが、この基本条例では、その原則に真っ向から反論するかのように、「前文」に「政治が適切に教育行政における役割を果たし、民の力が確実に教育行政に及ばなければならない」と堂々と書かれています。だったら、まずは大阪府では教育委員会制度を廃止しなければならないと思う。

 

百歩譲って、政治家が主導しないから今の教育がちゃんと機能していないのだとしても、あの条例で大阪の教育がじゃあマトモな方向に進むのかと言ったら、そうとは思えない。

 

そもそも、この教育基本条例、最初に「妙な」と書きましたが、その大半を教職員の人事(とりわけ懲戒処分と分限処分)に割くという異様な条例です。ご丁寧にも、別表として、教職員の処分の基準が事細かに掲げられています。たとえば、「正当な理由なく10日以内の間勤務を欠いた教員等」は「戒告又は減給」とか、「麻薬、覚せい剤等を所持し、又は使用した教員等」は「免職」だとか、別表第1~6まで、計101もの基準が列挙されています。「問題」のある教員って、そんなに多かったっけ?と錯覚するほど。そういうほんの一部の教職員のために、いやしくも「基本条例」に盛り込むことはないでしょう。いったいぜんたい、なぜ「基本条例」なのか、理解に苦しみます。

 

さて、「教育基本条例」らしい部分、つまり、大阪の教育をどうしたいのかという点については、第1章の(基本理念)第2条で6項目が掲げられているだけ。その6番目に、お得意の「グローバル社会」が出てきます。

 

この条例は、要するに、「グローバル社会」の中で競争に負けないための人材を育てる、ということらしい。でもさー、もう競争社会なんていう言葉自体が古いんじゃないの? 確かに世の中「グローバル」にはなってきているのかもしれませんが、「競争」という原理とは別の次元でのグローバル化が進んでいるんじゃないのかなあ。国を超えたネットワークとか、同じ人間同士のつながりとか。東日本大震災に寄せられた世界各国からの支援、あれは決して「競争社会」の原理からの行動ではなかったはずですよね。

 

2章以下では、その教育理念を実現するための方策が延々と述べられている。読んでみて、驚くべき内容ばかりだったので、いちいちあげつらうのはやめますが、私が一番口をあんぐり開けてしまったのは、「家庭教育」の役割について述べた条文です。

 

(保護者)第10条 3  保護者は、学校教育の前提として、家庭において、児童生徒に対し、生活のために必要な社会常識及び基本的生活習慣を身に付けさせる教育を行わなければならない。

 

どひゃー!ですね。

 

家庭における教育は、「学校教育の前提」だなんて、どこからそういう発想が出てくるのか、私には全く理解不能です。家庭教育って、親の教育って、そんな狭っこいものだったのか。「社会常識」とか「基本的生活習慣」って、学校でいい子になってもらうために身に付けるものなのか。そもそも、「社会常識」っていったい何?

 

しかも、「行うものとする」じゃなくて、「行わなければならない」です。強制です。さすが「ハシズム」です。この条例、ほんとに、上からの押し付け色がありありです。それでいて、「民の力」を教育行政に、なんて、よく言えるよなあと思います。

 

不易と流行という言葉があります。確かに教育も時代の動きに合わせて、「流行」の部分に敏感でなければならないけれど、それは全体から見たらほんの一部に過ぎない。教育のほとんどの部分は「不易」つまりどんなに時代が変遷しようが、永久に変わらない価値観とか真理が占めると思っています。今回の条例は、「基本」とうたいながら、時代が変われば変えざるを得ないような内容ばかりで、まさに「流行りもの」でしかありません。

 

この条例をほかの都道府県でも真似するんじゃないかと危惧する意見もあるようですが、そんなことはないだろうと思う。まともに考えたら、こんな時代錯誤の条例が広がるわけがない。それより怖いのは、「国」が真似するんじゃないかということ。今朝の新聞にも、さっそく、「橋下人気にあやかって」なんて言葉が出てました。あな恐ろしや。国はそういう地方の動きに敏感ですからね。少し目の見える「成果」を挙げれば、恥も外聞もなくすぐ真似っこして、国の政策にしちゃいます。もちろん、これまで真似していいものもあったのですが、大阪の基本条例だけは決して真似してはいけませんよ。政治家の人気なんて、あっという間に藻屑と消えていくのですから、教育行政がそれに振り回されてはいけません。


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6 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (Unknown)
2011-11-30 02:56:53
そうやって独裁とかファシズムとか叫ばせるのが橋下の狙い。
だってそれは橋下支持層をバカにさせる発言だもの。
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手をつなぐローカル (ナイルの風)
2011-11-30 22:01:54
4年生の版画を地域の商店や施設に飾ってほしいとお願いにいったところ「4年生だけでなく全校の子どもたちの絵や版画も飾ってください」「1週間だけとは言わず,冬休みの間中,ずうっと飾っておいてほしい」「閑古鳥の鳴く冬場に子どもたちの絵が地域を盛り上げてくれる」「こちらからお願いしなければならないのにありがたいです」どこの商店主さんもそういってくれました。そこで,12月12日より「法奥小なかよくナーレ」なる街かど美術展を開催することになりました。グローバリズムの前に,足下を見ることの大切さを感じました。
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いいお話ですね! (やっぴ)
2011-12-01 00:37:05
ナイルの風さん

泣けてきますね。
そのようにうれしい言葉をいただけるというのは、やはりふだんから、学校と地域の皆さんがちゃんとつながる努力を、ナイルの風さんをはじめ、皆さんがしているからだと思います。

まったく、ローカルを語らずして、グローバルは語れません。ナイルの風さんがおっしゃると、ほんとに説得力がありますね。
ありがとうございます。
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がんばれ!橋下市長! (鈴木輝一)
2011-12-04 23:28:46
①大阪の教育条例(案)は読んだことないので善悪不明。ただ、政治から超然とした教育はありえない。例えばアメリカ合衆国では、民主党の大統領になるとゴア副大統領の情報ハイウェイ、共和党が大統領になると基礎学力重視とコロコロ変わりました。「危機に立つ国家」で教育が産業競争力の基礎基盤であるとの民主・共和党共通認識のもとに情報化を進めてきた。
②東京も石原都知事の教育改革が進み、公立中高一貫校から総合学科、読み書きを丁寧に教える高校まで多様な学校を作ってきた。昔のように職員会議で神学論争を団交で行うことはなくなった。歌・旗論争を徹夜で論じた30年前とは社会が変わっている。学校も変わらなければ。内圧で変わるのが望ましいが、外圧を使って変えていくことも重要。
③「一国二制度」の医療や教育がこのまま持つとは思えない。公共投資で地方にばらまいた税金が教育費として都市に還元する土建国家システムは破綻。自立できる教育システムが必要。大阪教育改革はその流れと理解している。府立大学と市立大学、府立図書館と市立図書館、なぜ2つあるのか。
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Unknown (やっぴ)
2011-12-05 00:23:49
政治から超然とした教育はありえない。確かにそのとおりだと思います。しかし、米国でそのように政権によって教育方針が変わって、結局うまくいっているのでしょうか?
政治が教育を動かすのではなくて、日本の場合、教育(教員)が政治にもっと目を向けるほうが先ではないかと考えます。

「学校も変わらなければ」。その言葉は、学校現場の先生方がいつも言われていることで、「外圧」は相当きつくなってきているはずです。でも、日々子どもたちに向き合って苦労している教員だけにすべての責任を押しつけることはできません。「学校が変わる」ためには、社会や地域が変わらなければなりませんね。

大阪府と大阪市の二重体制のことは当事者ではないのでよく分かりませんが、その状況を無駄だと考えるかどうかは、大阪の住民が判断することだと思います。
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映画「風にそよぐ草」を見て (鈴木輝一)
2011-12-17 19:43:20
日経12月9日「シネマ万華鏡」中条省平先生星5つ評価の映画「風にそよぐ草」見てきました。
戦闘機「スピリットオブファイヤ」が出てきたので驚愕。こりゃ「星の王子様」のリメイクじゃ。私、「一日フランス語」といって試験直前の集中力でクリアーしてきた人。愛人文化のあるフランス映画を側室お局様文化のある日本人が見るのだから厳格なバチカン教会修道僧が見るより近似値で理解できるはず。音楽がすばらしく映像も美しい。ただ、FINが2回もあり、予定調和を拒否したラストが理解不能。落ちのない落語だ。監督、「新しい波」も89歳になったのだから予定調和で心残・余韻を残してくれ。遅い昼食(中華ランチ)食べていたら同じ映画をみたご婦人方が「なぜ最後は少女なの?猫が出てくるの?」と言っていた。私も同感。道行き・心中もので終わっていいの?歴史的名作映画で少女が出てきて終了するシーン、ありましたっけ。
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