結局、今年の冬はろくに「雪片づけ」をしないままに終わりそうです。雪は生活するのには少ないに超したことはないのですが、冬らしい冬を経験しないまま春を迎えてしまうというのも何だか妙な気分もします。長い間雪に降り込められた末に、だんだん雪が溶けて地面が見えてきて…といううれしさが自然に体に染みついているために、いつもの春とはちょっと違う感じは否めません。
日本には昔から四季の移り変わりを表す「節供(せっく)」があって、平安時代の貴族は節供ごとにそれぞれ行事を執り行い、季節の節目節目に身を浄めていたのです。今では「節句」とも書きますが、もともと次の5つの節句がありました。
人日(じんじつ)…1月7日「七草粥」
上巳(じょうし)…3月3日「桃の節句」
端午(たんご)…5月5日「端午の節句」
七夕(たなばた)…7月7日「七夕祭り」
重陽(ちょうよう)…9月9日「菊の節句」
節句は、貴族社会のものだけではなく、農民にも季節の節目を表す行事として広がっていきました。武家社会である江戸時代にも、儒教の教えと結びつけられてこの伝統は受け継がれていきます。明治6年に制度としての節句は廃止されますが、以後も、伝統的な行事として広く定着することになりました。ただし、「菊の節句」だけは、今ではなぜかすっかり廃れてしまいましたが。
今日は「桃の節句」にあたります。
「上巳」とはもともと3月最初の巳の日を指しますが、のちに縁起のいいゾロ目の3月3日と定められました。五節句はいずれも「食べ物」と密接な関係があることは周知の通りですが、「桃の節句」につきものなのは、「桃」と「ヨモギ」です。「ヨモギ」は薬草として、上巳の日に摘んできて体の厄を払います。「桃」にも魔除けの効果があると言われてきました。こうした上巳の日の習慣と、宮中の雛(紙の着せ替え人形)遊びが結びついたのが「ひな祭り」のルーツです。つまり、女の子は、この日、自分の厄を紙人形に引き受けてもらって川に流していたのですね。今でも一部で行われている「流し雛」です。この紙人形が、室町時代あたりから普通の「人形」に替わり、「雛人形」が誕生していくわけです。「お内裏様」と「お雛様」のカップルだけでなく、「三人官女」や「五人囃子」といった五段飾り、七段飾りと豪華な雛飾りが登場していったのも、それだけ仕える者の多い裕福な家柄であることを誇示するものだったのでしょう。
こうして、「川に流す」という風習は一般には消えてしまいますが、雛人形は、特に初節句を迎える女の子にこれから降りかかるであろう厄を代わりに引き受けてくれるものという考えは、今でも残っています。また、「雛人形をいつまでも飾っておくと嫁に行き遅れる」とはよく聞く言い伝えですが、その心は、「片づけがちゃんとできない娘はいいお嫁さんになれない」ということらしいですね。女の子も大変です。
ところで、お内裏様とお雛様の位置ですが、ほとんどのメーカーではお内裏様が向かって左、お雛様は右に配置されています。ところが、もともとは、その位置は逆だったらしいのです。反対になったきっかけは、昭和天皇の即位の礼(昭和3年)でした。この時、それまでの伝統を破って天皇が向かって左、皇后が右に立ったのです。言うまでもなく、それが「西洋スタイル」だったからです。それ以降、人形メーカーはこぞって、雛人形の配置も逆にすることになったのだとか…。そういう「時代」だったのですね。ただ、さすが京都の人形店だけは、伝統に忠実であろうとしました。今でも、京都のメーカーが作る雛人形は、お内裏様が向かって右、お雛様は左というスタイルをとっているようです。
日本には昔から四季の移り変わりを表す「節供(せっく)」があって、平安時代の貴族は節供ごとにそれぞれ行事を執り行い、季節の節目節目に身を浄めていたのです。今では「節句」とも書きますが、もともと次の5つの節句がありました。
人日(じんじつ)…1月7日「七草粥」
上巳(じょうし)…3月3日「桃の節句」
端午(たんご)…5月5日「端午の節句」
七夕(たなばた)…7月7日「七夕祭り」
重陽(ちょうよう)…9月9日「菊の節句」
節句は、貴族社会のものだけではなく、農民にも季節の節目を表す行事として広がっていきました。武家社会である江戸時代にも、儒教の教えと結びつけられてこの伝統は受け継がれていきます。明治6年に制度としての節句は廃止されますが、以後も、伝統的な行事として広く定着することになりました。ただし、「菊の節句」だけは、今ではなぜかすっかり廃れてしまいましたが。
今日は「桃の節句」にあたります。
「上巳」とはもともと3月最初の巳の日を指しますが、のちに縁起のいいゾロ目の3月3日と定められました。五節句はいずれも「食べ物」と密接な関係があることは周知の通りですが、「桃の節句」につきものなのは、「桃」と「ヨモギ」です。「ヨモギ」は薬草として、上巳の日に摘んできて体の厄を払います。「桃」にも魔除けの効果があると言われてきました。こうした上巳の日の習慣と、宮中の雛(紙の着せ替え人形)遊びが結びついたのが「ひな祭り」のルーツです。つまり、女の子は、この日、自分の厄を紙人形に引き受けてもらって川に流していたのですね。今でも一部で行われている「流し雛」です。この紙人形が、室町時代あたりから普通の「人形」に替わり、「雛人形」が誕生していくわけです。「お内裏様」と「お雛様」のカップルだけでなく、「三人官女」や「五人囃子」といった五段飾り、七段飾りと豪華な雛飾りが登場していったのも、それだけ仕える者の多い裕福な家柄であることを誇示するものだったのでしょう。
こうして、「川に流す」という風習は一般には消えてしまいますが、雛人形は、特に初節句を迎える女の子にこれから降りかかるであろう厄を代わりに引き受けてくれるものという考えは、今でも残っています。また、「雛人形をいつまでも飾っておくと嫁に行き遅れる」とはよく聞く言い伝えですが、その心は、「片づけがちゃんとできない娘はいいお嫁さんになれない」ということらしいですね。女の子も大変です。
ところで、お内裏様とお雛様の位置ですが、ほとんどのメーカーではお内裏様が向かって左、お雛様は右に配置されています。ところが、もともとは、その位置は逆だったらしいのです。反対になったきっかけは、昭和天皇の即位の礼(昭和3年)でした。この時、それまでの伝統を破って天皇が向かって左、皇后が右に立ったのです。言うまでもなく、それが「西洋スタイル」だったからです。それ以降、人形メーカーはこぞって、雛人形の配置も逆にすることになったのだとか…。そういう「時代」だったのですね。ただ、さすが京都の人形店だけは、伝統に忠実であろうとしました。今でも、京都のメーカーが作る雛人形は、お内裏様が向かって右、お雛様は左というスタイルをとっているようです。
”ホント(?)・・・”にヒットしました。
川内さんの奥さんはハーバード出の弁護士?さんとか
86歳の大人の気風を見せなさいと和人らしいアドバイスをして欲しいと面白がっている野次馬です。
著作者人格権、実演家人格権ということまで今夜は勉強しました。
明日は「やっぴBLOG」と「やっぴらんど」をゆっくり拝見します。
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はじめまして。ご訪問いただきありがとうございました。
おっしゃるとおり、青森にゆかりのあるらしい川内さんには気概を見せてほしいものですね。
これからも「やっぴらんど」共々よろしくお願いいたします。