日本の初等中等教育では、中学校から高校まで足かけ9年間もの間「英語」という教科があり、英語の読み書きは一通りできるようになる…ことになっています。ところが、日本人には英語の文法がそもそも合わないのか、これほど「英語」の授業を受けてきた人でも、まともに英語の読み書きができる人はそれほど多くはないようです(かくいう私ももちろんそのひとり)。
ということで、日本の英語教育はなっとらん、役にたたない読み書きや文法を教えるよりも、もっと「実践的」な「会話」を教えよう、と声高に叫ぶ人もいるようです。挙げ句、中学校からじゃ遅い、小学校でも「英語」(つまり「英会話」)を学ばせようと言っています。
増田義郎という歴史学者は、かつて、大学(東大)で英会話をもっとやってほしい、という学生が多いことを引き合いに出して、「日本国民は、元来外国語をしゃべる必要のない状況に置かれているのである。したがって、日本人一般が、むりやりに外国語会話を練習する必要など、あまりない」、「一億の日本語国民にとりかこまれながらの週一時間の英会話の時間でなんとかなると思ったら大間違いだ。それは、太平洋に赤チンを一、二滴落とすようなもので、海が赤くならない、ならないと言ってさわぎたてる方がどうかしているのだ」と言っています(『私の外国語』岩波新書)。大学は、「教養をつけ、知識を学ぶところ」だから、「教養でも知識でもない」会話なんか学ぶ必要はないというわけです。会話は、必要に迫られれば(外国に暮らすとか日本で外国人と始終接するとか)、自然と身に付くものであって、大学で教えるのは無意味だ、と。
一理はある、と思います。外国に長く住んでいる人がみんな「英語のうまい人」がというとそうも言えず、「英語のうまい人」はやっぱりそれなりの「文法」もきちんと学んできている人のような気がします。それから、「英語のうまい人」は日本語も上手、というより、日本語の文法がしっかりしていて、日本語をきちんと話せる人だと思います。
私自身の英語にまつわる数少ない経験上からいうと、外国に行って「必要に迫られ」て英語を話すことになった時、役に立ったのは中学校・高校時代に習った英語の文法であり、詰め込みで覚えた単語や慣用句でした。何年も発音したことのない単語が知らぬ間に自分の口から出てきたことに驚いたこともありました。
「英会話」の授業というと、常套句を定型文で覚えたり、こんな時にはこんな言い方をします、それから発音はこんな感じで、といった学び方になるのでしょう。ただ、そうして覚えたことを「実践的」なものにするためには、「応用」ができるかどうかにかかっています。応用するためには、やはり「文法」的な裏付けと豊富な「語彙」が必要です。そういう意味では、味気ないと言われ続けてきた日本の中学校・高校の英語の授業も、文法と語彙力をしっかり身につけるためのものととらえれば、意味がないどころか、「英語のうまい人」になるためには必要不可欠なものと言ってもいいのかもしれません。
ということで、日本の英語教育はなっとらん、役にたたない読み書きや文法を教えるよりも、もっと「実践的」な「会話」を教えよう、と声高に叫ぶ人もいるようです。挙げ句、中学校からじゃ遅い、小学校でも「英語」(つまり「英会話」)を学ばせようと言っています。
増田義郎という歴史学者は、かつて、大学(東大)で英会話をもっとやってほしい、という学生が多いことを引き合いに出して、「日本国民は、元来外国語をしゃべる必要のない状況に置かれているのである。したがって、日本人一般が、むりやりに外国語会話を練習する必要など、あまりない」、「一億の日本語国民にとりかこまれながらの週一時間の英会話の時間でなんとかなると思ったら大間違いだ。それは、太平洋に赤チンを一、二滴落とすようなもので、海が赤くならない、ならないと言ってさわぎたてる方がどうかしているのだ」と言っています(『私の外国語』岩波新書)。大学は、「教養をつけ、知識を学ぶところ」だから、「教養でも知識でもない」会話なんか学ぶ必要はないというわけです。会話は、必要に迫られれば(外国に暮らすとか日本で外国人と始終接するとか)、自然と身に付くものであって、大学で教えるのは無意味だ、と。
一理はある、と思います。外国に長く住んでいる人がみんな「英語のうまい人」がというとそうも言えず、「英語のうまい人」はやっぱりそれなりの「文法」もきちんと学んできている人のような気がします。それから、「英語のうまい人」は日本語も上手、というより、日本語の文法がしっかりしていて、日本語をきちんと話せる人だと思います。
私自身の英語にまつわる数少ない経験上からいうと、外国に行って「必要に迫られ」て英語を話すことになった時、役に立ったのは中学校・高校時代に習った英語の文法であり、詰め込みで覚えた単語や慣用句でした。何年も発音したことのない単語が知らぬ間に自分の口から出てきたことに驚いたこともありました。
「英会話」の授業というと、常套句を定型文で覚えたり、こんな時にはこんな言い方をします、それから発音はこんな感じで、といった学び方になるのでしょう。ただ、そうして覚えたことを「実践的」なものにするためには、「応用」ができるかどうかにかかっています。応用するためには、やはり「文法」的な裏付けと豊富な「語彙」が必要です。そういう意味では、味気ないと言われ続けてきた日本の中学校・高校の英語の授業も、文法と語彙力をしっかり身につけるためのものととらえれば、意味がないどころか、「英語のうまい人」になるためには必要不可欠なものと言ってもいいのかもしれません。
ジャーナリストの神保哲生さん(インターネットで広告に寄らないニュースを配信しています)が、こんなことを話していました。
日本が嫌になって外国に留学したものの、授業を聞いてもまるでわからず一言も話せずひとりぽつん・・・がしばらく続いたのですが、ある時ふと日本で丸暗記させられた英語のことわざがひとつ口をついて出たんだそうです。(覆水盆に返らず、みたいな)するとアメリカの学生はそんなことわざ誰も知らなくて、オオーッすごい!と一目おかれ、それから自信がついてだんだんコミュニケーションできるようになったとか。
つめこみ丸暗記もいいことあります。
因みに私は子どもの英会話教室へおずおず見学に行き、英国人の先生に「Can you speak English?」ときかれて「と、とんでもありません!」と日本語で答えたひきこもり系だめ親です。
外国に行こうというような意志と積極性を持たない者にとっては、つめこみ丸暗記も意味がないのでした・・・
面白い話ですね。そんな劇的な状況ではなくても、人生のどこかで知らないうちに詰め込み丸暗記が役に立ってるかもしれませんよ。もちろんそれだけの学校教育ではいかんと思いますが。