明らかに他の誰かを傷つけたり不愉快な思いをさせることを意図した表現は、「表現の自由」とは言わないのではないか。また、弱い立場にある者が強い権力を持った者に対して行われるのが「風刺」だったのではないのか?
フランスの「シャルリー・エブド」襲撃の原因となったのが「風刺画」だと聞き、あるいは、卑劣なテロ行為に対する抵抗の旗印として「表現の自由」を掲げる風潮に接して、あれれちょっと待てよ、と思いました。もちろん、今回のテロは絶対に許されるべきものではなく、暴力という報復手段に訴えるのは言語道断です。
ただ、同紙が掲載していたという預言者ムハンマドや聖典コーランを「おちょくる」ような「風刺画」は「風刺画」とさえ言えないのではないかと思うのです。イスラム教徒にとって(もちろん暴力行為に訴える過激派だけでなく)、ムハンマドやコーランは、生活の中に溶け込み、体の一部といっていいほどの存在です。それをあんなふうに茶化されたら、いったいどう思うでしょう? そもそも、イスラム教は偶像崇拝を禁じているので、ムハンマドの姿を描くことさえ、決して許されない行為です。
ああいう「風刺画」を新聞に載せることが「表現の自由」というなら、日本での「ヘイトスピーチ」だって表現の自由だから許されるということになってしまう。要は、「相手の気持ち」の問題です。要するに、相手の立場に立ってみるということ。明らかに誰かが嫌な思いをすると分かっていての表現の自由はあってはならないのではないでしょうか。
繰り返しますが、卑劣なテロリズムに対する怒りは別として、です。
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