
「ベラスケスもデューラーもルーベンスも、わが家の宮廷画家でした。」
ってのが、「THE ハプスブルク」展のキャッチコピー。なかなか嫌みったらしいコピーじゃありませんか。でも、実際その通りなのだから、仕方ありませんね。秀逸なキャッチコピーに比べたら、サブタイトルの方は「華麗なる王家と美の巨匠たち」とごくありきたり。それなら、ハプスブルク家のライバル、ブルボン家にもあてはまるわい!
この展覧会の最大の目玉ともいえる、スペインの宮廷画家、ベラスケス(1599-1660)の作品を見ていきましょう。
そもそも、スペインがハプスブルク家の支配下に入ったのは、16世紀、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-56)の時代です。彼の父親は、ブルゴーニュを支配していたハプスブルク家のフィリップ、母親は、スペインの"狂女"フアナです。この政略結婚が、スペインとハプスブルク家を結びつけ、さらに「世界帝国」へのチャンスをもたらすことになるわけです。
なんといっても、フアナの母は、スペインを統一し、コロンブスを大航海に送り出したイサベル女王ですから。イサベルは自分の後継者にフアナを指名。夫フィリップは、この機をとらえてフェリペ1世(「フィリップ」はスペイン語風に言えば「フェリペ」となります)として共同統治を主張、しかしイサベルは最後までこれを認めなかった。彼は、フアナの精神に異常をきたした原因を作ったとも言われていますが、1506年、あっけなく死んでしまいます。
父フィリップからブルゴーニュ公の地位を受け継いでいた息子カールは、1516年、弱冠16歳でスペイン王位を手に入れます(スペイン王としては「カルロス1世」)。ところが、1517年、17歳の時に、精神に異常を来したまま幽閉されていた母フアナに、スペイン王位を譲るよう求めるために初めてスペインを訪れます。フアナは、幽閉されながらも、いまだ正式にはスペイン女王の地位にあり、カールが訪れた時も、「我のみが女王である」と言い放ったと言われています。しかし、カールはこれを無視して、強引に王権の継承を認めさせるのです。
こうした経緯から、スペイン国民のカルロス1世に対する評判はさんざんなものでした。カールは、「スペインは世の金庫じゃ」と常々言っていたそうですが、1519年に祖父の神聖ローマ皇帝マクシミリアンが亡くなると、待ってましたとばかりにスペインから選挙資金を引き出し、晴れて神聖ローマ皇帝カール5世となったのでした。皇帝として、彼は、最大のライバル・フランスとの戦い、そして、宗教改革に端を発する宗教戦争と、その治世のほとんどを戦争に明け暮れます。
1555年、母フアナが75歳の不遇の生涯を終えると、その半年後には、カールは息子フェリペにスペイン王位を譲り(フェリペ2世:位1556-1598)、皇帝位も弟のフェルナンドにあっさり譲ってしまいます。これにより、ハプスブルク帝国もスペイン系とオーストリア系に二分されることになります。
スペインを「太陽の沈まぬ帝国」に仕立て上げたフェリペ2世ですが、彼の徹底したカトリック擁護策は、英国との対立を招き、スペインの誇る「無敵艦隊」は1588年に英国海軍に敗れてしまいます。ネーデルラント(オランダ)の独立(1609年)もスペインにとって大きな痛手となり、スペインの政治的・対外的な勢いは、急速に衰えていきました。
しかし、スペインの文化は、むしろ次のフェリペ3世、4世の時代に黄金時代を迎えます。『ドン・キホーテ』を書いたセルバンテスや、ベラスケス、エル・グレコといった宮廷画家が活躍したのはそんな時代でした。
さて、ベラスケスは、フェリペ4世の宮廷画家です。彼は、フェリペ4世の王子、王女たちの肖像を数多く残しています。それだけ王の信頼を勝ち得ていたということでしょう。ベラスケスは、その晩年には王の側近としての地位さえ獲得しています。

ベラスケスの最高傑作の一つが、「女官たち(ラス・メニーナス)」(1656年、プラド美術館蔵)でしょうか。王女マルガリータを中心として、侍女たちの姿をとらえたもの。正面の鏡には、フェリペ4世夫妻が映っています。つまり、この作品は、絵の手前にいる国王夫妻から見た視点で描かれているということですね。左側には大きなキャンバス、その前で得意げに絵筆を握るのは、もちろんベラスケス自身! 国王に仕える画家としての自負がこれほど直裁に描かれた作品がほかにあるでしょうか!

さて、この絵の中心人物はなんといっても、可憐なマルガリータ王女ですが、彼女の成長を記録するかのように、晩年期のベラスケスは、多くの肖像画を残しています。今回の展覧会では、5歳の王女を描いた「白衣の王女マルガリータ・テレサ」(1656年頃、ウィーン美術史美術館蔵)の1点が展示されています。思わず触れてみたくなりそうなふっくらとしたほっぺた、真っ白な肌、つややかな金髪、子どもながらに豪華なドレス、いずれも、王女としての気品に満ちあふれています。父フェリペ4世も、娘のこんな素敵な肖像画を見て、さぞかし喜んだことでしょう。

同じく3歳の王女を描いた「薔薇色の衣装のマルガリータ王女」(1653-54年頃、ウィーン美術史美術館蔵)、8歳の時の「青い衣服を身に着けたマルガリータ王女」(1659年 、同)と3枚並べてみると、少女の成長ぶりがとてもよくわかります。彼女は、ハプスブルク家の伝統に違わず、政略結婚をさせられています。お相手は、神聖ローマ皇帝レオポルト1世。これによって、二分されていたスペイン系とオーストリア系が再び接近し、ブルボン朝のフランスに対抗していくことになるのです。これら3枚の絵は、嫁ぎ先のウィーンに贈られています。スペインの画家ベラスケスの作品がウィーン美術史美術館に所蔵されているのは、そんなわけでもあったのですね。マルガリータ自身は、22歳という短い生涯を終えています。

一方、「白衣の王女マルガリータ・テレサ」と並んで展示されていた「王子フェリペ・プロスペロ」(1659年、ウィーン美術史美術館蔵)。フェリペ4世にとっては、待望の皇太子。ところが、この絵から受ける印象は、「マルガリータ」とはまったく違っていました。当時の風習で、女の子のようなドレスを着せされている王子、確かに気品にあふれている。でも、その表情からは、マルガリータのような子どもらしい高慢さは感じられず、どことなくはかなげでもろささえ感じる。
あとで調べてみたら、この王子は国王になることはできなかったようです。というより、この絵が描かれた2年後に、たった4歳で生涯を閉じている。その前年にはベラスケス自身も61歳で亡くなっています。ベラスケスには、王子と自分とをめぐるそんなはかない運命の予感があったのかもしれませんね。
ってのが、「THE ハプスブルク」展のキャッチコピー。なかなか嫌みったらしいコピーじゃありませんか。でも、実際その通りなのだから、仕方ありませんね。秀逸なキャッチコピーに比べたら、サブタイトルの方は「華麗なる王家と美の巨匠たち」とごくありきたり。それなら、ハプスブルク家のライバル、ブルボン家にもあてはまるわい!
この展覧会の最大の目玉ともいえる、スペインの宮廷画家、ベラスケス(1599-1660)の作品を見ていきましょう。
そもそも、スペインがハプスブルク家の支配下に入ったのは、16世紀、神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-56)の時代です。彼の父親は、ブルゴーニュを支配していたハプスブルク家のフィリップ、母親は、スペインの"狂女"フアナです。この政略結婚が、スペインとハプスブルク家を結びつけ、さらに「世界帝国」へのチャンスをもたらすことになるわけです。
なんといっても、フアナの母は、スペインを統一し、コロンブスを大航海に送り出したイサベル女王ですから。イサベルは自分の後継者にフアナを指名。夫フィリップは、この機をとらえてフェリペ1世(「フィリップ」はスペイン語風に言えば「フェリペ」となります)として共同統治を主張、しかしイサベルは最後までこれを認めなかった。彼は、フアナの精神に異常をきたした原因を作ったとも言われていますが、1506年、あっけなく死んでしまいます。
父フィリップからブルゴーニュ公の地位を受け継いでいた息子カールは、1516年、弱冠16歳でスペイン王位を手に入れます(スペイン王としては「カルロス1世」)。ところが、1517年、17歳の時に、精神に異常を来したまま幽閉されていた母フアナに、スペイン王位を譲るよう求めるために初めてスペインを訪れます。フアナは、幽閉されながらも、いまだ正式にはスペイン女王の地位にあり、カールが訪れた時も、「我のみが女王である」と言い放ったと言われています。しかし、カールはこれを無視して、強引に王権の継承を認めさせるのです。
こうした経緯から、スペイン国民のカルロス1世に対する評判はさんざんなものでした。カールは、「スペインは世の金庫じゃ」と常々言っていたそうですが、1519年に祖父の神聖ローマ皇帝マクシミリアンが亡くなると、待ってましたとばかりにスペインから選挙資金を引き出し、晴れて神聖ローマ皇帝カール5世となったのでした。皇帝として、彼は、最大のライバル・フランスとの戦い、そして、宗教改革に端を発する宗教戦争と、その治世のほとんどを戦争に明け暮れます。
1555年、母フアナが75歳の不遇の生涯を終えると、その半年後には、カールは息子フェリペにスペイン王位を譲り(フェリペ2世:位1556-1598)、皇帝位も弟のフェルナンドにあっさり譲ってしまいます。これにより、ハプスブルク帝国もスペイン系とオーストリア系に二分されることになります。
スペインを「太陽の沈まぬ帝国」に仕立て上げたフェリペ2世ですが、彼の徹底したカトリック擁護策は、英国との対立を招き、スペインの誇る「無敵艦隊」は1588年に英国海軍に敗れてしまいます。ネーデルラント(オランダ)の独立(1609年)もスペインにとって大きな痛手となり、スペインの政治的・対外的な勢いは、急速に衰えていきました。
しかし、スペインの文化は、むしろ次のフェリペ3世、4世の時代に黄金時代を迎えます。『ドン・キホーテ』を書いたセルバンテスや、ベラスケス、エル・グレコといった宮廷画家が活躍したのはそんな時代でした。
さて、ベラスケスは、フェリペ4世の宮廷画家です。彼は、フェリペ4世の王子、王女たちの肖像を数多く残しています。それだけ王の信頼を勝ち得ていたということでしょう。ベラスケスは、その晩年には王の側近としての地位さえ獲得しています。

ベラスケスの最高傑作の一つが、「女官たち(ラス・メニーナス)」(1656年、プラド美術館蔵)でしょうか。王女マルガリータを中心として、侍女たちの姿をとらえたもの。正面の鏡には、フェリペ4世夫妻が映っています。つまり、この作品は、絵の手前にいる国王夫妻から見た視点で描かれているということですね。左側には大きなキャンバス、その前で得意げに絵筆を握るのは、もちろんベラスケス自身! 国王に仕える画家としての自負がこれほど直裁に描かれた作品がほかにあるでしょうか!

さて、この絵の中心人物はなんといっても、可憐なマルガリータ王女ですが、彼女の成長を記録するかのように、晩年期のベラスケスは、多くの肖像画を残しています。今回の展覧会では、5歳の王女を描いた「白衣の王女マルガリータ・テレサ」(1656年頃、ウィーン美術史美術館蔵)の1点が展示されています。思わず触れてみたくなりそうなふっくらとしたほっぺた、真っ白な肌、つややかな金髪、子どもながらに豪華なドレス、いずれも、王女としての気品に満ちあふれています。父フェリペ4世も、娘のこんな素敵な肖像画を見て、さぞかし喜んだことでしょう。


同じく3歳の王女を描いた「薔薇色の衣装のマルガリータ王女」(1653-54年頃、ウィーン美術史美術館蔵)、8歳の時の「青い衣服を身に着けたマルガリータ王女」(1659年 、同)と3枚並べてみると、少女の成長ぶりがとてもよくわかります。彼女は、ハプスブルク家の伝統に違わず、政略結婚をさせられています。お相手は、神聖ローマ皇帝レオポルト1世。これによって、二分されていたスペイン系とオーストリア系が再び接近し、ブルボン朝のフランスに対抗していくことになるのです。これら3枚の絵は、嫁ぎ先のウィーンに贈られています。スペインの画家ベラスケスの作品がウィーン美術史美術館に所蔵されているのは、そんなわけでもあったのですね。マルガリータ自身は、22歳という短い生涯を終えています。

一方、「白衣の王女マルガリータ・テレサ」と並んで展示されていた「王子フェリペ・プロスペロ」(1659年、ウィーン美術史美術館蔵)。フェリペ4世にとっては、待望の皇太子。ところが、この絵から受ける印象は、「マルガリータ」とはまったく違っていました。当時の風習で、女の子のようなドレスを着せされている王子、確かに気品にあふれている。でも、その表情からは、マルガリータのような子どもらしい高慢さは感じられず、どことなくはかなげでもろささえ感じる。
あとで調べてみたら、この王子は国王になることはできなかったようです。というより、この絵が描かれた2年後に、たった4歳で生涯を閉じている。その前年にはベラスケス自身も61歳で亡くなっています。ベラスケスには、王子と自分とをめぐるそんなはかない運命の予感があったのかもしれませんね。
ベララスケスの絵も良かったのですが、そのほかに印象に残ったものの一つは、「11歳の女帝マリア=テレジア」です。
ほっそりしていて、とってもかわいい姿が娘の
マリー=アントワネットと似てる?!と思いました。
マリー=アントワネットも50代くらいまで生きていたら、お母さんみたいになっていたかもしれませんね。
「11歳の女帝マリア・テレジア」、確かに娘に似てましたね。あの腰の細さには驚きました。
アントワネットが50代まで生きていたら…。どうですかね。マリア・テレジアみたいな女傑ぶりを発揮できていたかどうか…。想像してみるのは楽しいですね。