カクレマショウ

やっぴBLOG

「おくりびと」─「石文」としてのメッセージ

2009-02-25 | ■映画
2008年/日本/130分
【監督】 滝田洋二郎
【脚本】 小山薫堂
【音楽】 久石譲
【出演】 本木雅弘/小林大悟  広末涼子/小林美香  山崎努/佐々木生栄  余貴美子/上村百合子
<2009-02-21 青森松竹アムゼにて>
写真=(C)2008映画「おくりびと」製作委員会

*****************************************

今日、学校時代に大変お世話になった方の通夜に参列してきました。退職して数年しかたっていないのに、あまりにも早すぎる死。ご家族の悲しみは察するに余りあります。祭壇にはあのやさしい笑みを浮かべたお顔と、それから、遺骨。ご遺体はきちんと「おくられ」たかなあとふと思いました。

そんなことを思ったのも、先日、「おくりびと」をようやく見ることができたからです。アカデミー賞外国語映画賞を見事射止めたというので、再上映している映画館はどこも長蛇の列なのだそうですが、私がアカデミー賞の前に見に行った時にも、休日の朝一番の上映にもかかわらず、ほぼ満席でした。ギリギリに駆け込んだおかげで、空いている席は最前列のみ。確かに最前列は、見にくいことは見にくいのですが、前方にも同じ列にも誰も座っていないので、周囲を気にすることなく(鼻をすすり上げる音、とかね)映画に没頭することができました。見終わって思うと、それはそれでよかったなあと思います。首は疲れましたけど…!

「死」には悲しみがつきものだからというわけではなく、ほんとうに、見ていて自然に涙が流れてきました。本木雅弘や山崎努の演ずる納棺師による、美しく心のこもった「儀式」はそれだけで十分に心を揺さぶられます。人生にたった一度しかない死出の旅立ちを、あれだけ「きちんと」してくれたら、行くほうもそれを見守るほうも満足だろうと思いました。

脚本を書いた小山薫堂氏は、この映画で一番書きたかったことは、「「普通」って何だろう? でしょうか」と言っています(劇場用パンフレットより)。

「死ぬということは「究極の平等」で誰にでも訪れる「普通のこと」。その普通を扱う職業が普通でないと言われる不条理さ。」

映画の中でも、小林大悟(本木)が妻に向かって「普通ってなんだよ」と言いつのるシーンがありました。でも、「死」は誰にでもやってくることだけど、たった一度だけの「特別なこと」にはちがいない。だからやっぱり「普通ではない」のではないでしょうか。火葬場の職員(笹野高史)が、死ぬということは「門」を通るみたいなもの、と言っていました。まったくその通りです。誕生という「門」を通ってきた私たちは、一人残らず、次に死という「門」を通らなければならない。そこに、生まれた時と同じような「特別な」通過儀礼がきちんとあってしかるべきだろうと思う。その儀礼を仕切る専門的な技術を持つ人がいても何の不思議もない。納棺師という職業が登場したのは戦後のことらしいですが、それまでは、遺体の「お清め」は通常近親者によって行われていました。それはたぶん、日本人が、死を「不浄」のものととらえていたからです。不浄だから清める儀式が是が非でも必要…。

人の死に関わる職業は、忌み嫌われてきたという歴史もあります。大悟の妻(広末涼子)が、仕事を終えて帰ってきた大悟に対して、「けがらわしい!触らないで」と叫ぶシーンはそれを象徴的に表していますね。死人に触れてきた者は不浄。だから塩で「清める」必要もある。

納棺師という職業は、しかし、そういうことを超越しなければやっていけない商売です。いちいち不浄だとか清めるとか考えていたのでは成り立たないのではないかと思いました。「割り切り」と言ったら言い過ぎかもしれませんが、それは一つの「儀式」でいいのだと思います。儀式とは、目に見えない何ものかに感謝や祈りを捧げる場だと考えますが、そこでは「形式」や「手順」はとても重要です。そして、そこには、心を震わせるような「様式美」がある。

生まれた時、人は誰も誕生を祝福されていろいろな形で「儀式」が行われます。そのことを自分自身はもちろん覚えていないわけですが、同じように、死後に自分がどんな扱いを受けるかについても知る由はない。でも、「死の門」のくぐり方については、事前に希望を言っておくことはできます。この映画を見て、ああいうふうに扱われたいと思う人は多いと思いますが、逆に、一切自分の体をいじってくれるな、と望む人もいることでしょうね。

それにしても、小林大悟が納棺師という職業に就いたのは、運命的としかいいようがない。なにしろ、彼にとって(というより、ほとんどの人にとって)、それまで考えたこともない職業ですから。「社長」(山崎努)に「これはお前の天職なんだ」と言われ、「勝手なことを言うな」と反発するシーンがありましたが、しかし、彼自身その頃には既にこれは天職かも…とうすうす感じていたのではないでしょうか。その仕事を呼び寄せたのは、誰のおかげ(せい?)でもなく、彼自身の持つ「いい偶然を引きつける力」だった。そう思います。そして、そういう意味では、大悟がうらやましくもある。

この映画のテーマは「日本人の死生観」ですが、実はもう一つ重要なテーマがあって、それは、「石文(いしぶみ)」というメッセージの伝え方。無数の石の中から、自分が選んだ1個の石で相手に何かしらのメッセージを伝える。言葉や文字がなくても、ちゃんと伝わる。もちろん、ちゃんと「伝わる」ためには、お互いに相手を信じていることが必要ですね。相手がどういう人かがちゃんとわかっているから石ころでメッセージが伝わる。こんなに奥ゆかしくて真正直なメッセージの伝え方があるとは…。

映画では、小さい頃に生き別れた父との関係に、石文が効果的に使われています。この二重テーマを、「くどい」と感じる人もいるようですが、ま、石文がなければ大悟は父の「おくりびと」にはなれなかったかもしれないし、私はとてもいいつくりだなと思いました。

こういう映画が日本で作られたことを誇りに思います。きっと、この映画「おくりびと」自体が「石文」なのです。世界中の人々に向けられた…。死と生に対する立ち位置をふりかえるために送られた、奥ゆかしく、静謐な、しかも力強く、真正直なメッセージ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿