
"GRAN TORINO"
2008年/米国/117分
【監督・製作】クリント・イーストウッド
【脚本】ニック・シェンク
【音楽】カイル・イーストウッド マイケル・スティーヴンス
【出演】クリント・イーストウッド/ウォルト・コワルスキー ビー・ヴァン/タオ・ロー アーニー・ハー/スー・ロー クリストファー・カーリー/ヤノビッチ神父
**********************************************
ポーチのある家、ジッポのライター、酒場、悪漢、ヒロインが危険な目にあうとさっそうと助けにやってくる主人公…。
この映画に出てくる背景や小道具を改めて思い返してみると、こりゃ完全に「西部劇」ですな。派手な銃の撃ち合いがないだけで。主人公がまたがる「馬」がさしずめグラン・トリノか。いや、この映画では主人公がグラン・トリノに乗るシーンは一度も出てこないので、フォードのピックアップが彼の「馬」か。
要するに、西部劇の舞台を現代の米国に置き換えてみたのが、この映画。もちろん、クリント・イーストウッドは、西部劇を踏襲しながらも、あちこちに彼なりの濃い味付けを加えてますけどね。
西部劇では、白人とインディアンは容易には心を通わせられません。先住民族のインディアンにとっては、白人は自分たちの生活や文化を脅かす侵入者でしかなかったのですから(例外的に、「ダンス・ウィズ・ウルブス」(西部劇ではないけど)では、白人とインディアンの交流が描かれていますが)。
「インディアン」の代わりにこの映画に登場するのが「モン族」です。
モン族…。実は、インドシナ半島には、ややこしいことに、全く系統の異なる2つの「モン族」が存在するのです。
一つは、ミャンマー、タイに古くから住み、上座部仏教を信仰するモン族(Mon)。そして、もう一つは、中国南部の雲南地方からラオス、タイ、ミャンマー、ベトナムにかけて住む山岳民族のモン族(Hmong)。後者は、中国では「ミャオ(苗)族」と呼ばれますが、ただ、彼らの中には「ミャオ」を蔑称ととらえる人も多いらしく、ミャオを避けて、「モン族」と自称しています。日本語表記では、どちらも「モン」になってしまうので、どちらのモン族なのか、必ず断り書きが必要になります。
この映画に登場する「モン族」は、"Hmong"、つまり「ミャオ」のほうです。"Mon"と違って、"Hmong"は文字を持っていなかったこともあり、その歴史は謎に包まれています。ベトナム戦争の際、米国はインドシナ半島の共産化を防ぐために、彼らの一部を取り込んで共産勢力と戦わせました。戦後、ラオスに社会主義政権が樹立されると、米軍とともに戦ったモン族は、タイ領内に逃げ込み、さらに、そのうち約4万人が米国に移住しました。この映画に出てくるモン族は、そんな経緯で米国に住むことになった難民、もしくはその二世ということになります。
なぜこの映画でモン族が選ばれたのかはよくわかりませんが、イーストウッド監督は、キャスティングにあたって、中国人や日本人の俳優を使うことなく、実際に米国に住むモン族の人々から素人をオーディションで選んだのだそうです。彼らが話す言葉や食べ物、最後にちらっと出てくる民族衣装など、だからこそリアリティがある。
彼らの宗教は、自然に宿る精霊崇拝です。隣家に住むモン族のロー家のパーティに呼ばれた主人公ウォルト・コワルスキーが、祈祷師に「心を読み取られる」シーンがありました。祈祷師は、彼の顔を見て、こんなことを言います。
何を食べても味がなく、人生に迷っている
過去に過ちを犯して 自分を許すことができない
人生に幸せがなく 心の安らぎもない
かつて朝鮮戦争に従軍したウォルトは、帰国してフォードの工場に職を得、結婚して二人の息子にも恵まれます。でも、戦争での体験を思い出さない日はない。「13人かそれ以上」の敵を殺した経験は、今なお彼の脳裏から離れない。
人を殺すのは最悪な気分だ。それで勲章をもらって褒められるなんてもっと最悪だ。
息子たちは二人とも家を出て、それぞれに平和な家庭を築いているが、孫たちも含め、偏屈で融通のきかない彼をなんとなく避けている。妻を亡くしてからのち一人暮らしをするようになって、ますます彼の心は閉ざされていく。息抜きといえば、酒場や床屋での友人たちとのたわいもない会話、そして、彼自身が製造に関わった1972年製フォード「グラン・トリノ」をぴかぴかに磨き上げること。
そんなウォルトの生活に、ふとしたことからロー家が関わってくるようになる。彼自身は、アジア系の移民を「イエロー」と呼び、嫌悪感を抱いていました。それがなぜなのかは映画では語られませんが、モンの人々はそんなウォルトの感情さえ包み込んでいくのでした。
どうにもならない身内より この連中が身近に思える
まったく 情けない
そんなことをつぶやくウォルト。誰にも心を開かなかった彼が、モンの少年タオやその姉スーとつきあっていく中で、次第に「心の安らぎ」を取り戻していくのです。
しかし、彼の存在が、結果的にモン一家に悲劇をもたらしてしまうことになるとは…。
彼が大切にする「グラン・トリノ」というクルマは、力任せに世界を動かしてきた米国の象徴なのかもしれません。そして、ラストで、彼はものの見事に、そんな強さ、たくましさに見切りをつけるような幕切れを見せる。きっちりと。
これは紛れもなく「西部劇」です。つまり米国という国でしか作れない映画。でも、西部劇だからこそ、私たちはこの映画を見て自然に涙を流せるのですね。そして、ある程度予定調和的な展開も許せるというわけです。そこまで計算しているとすれば、やっぱりクリント・イーストウッドの演出力はたいしたものです。
役者としては今回が最後だと言っているようですが、そもそも、80歳近い人がこれだけの映画を監督するだけでなく、自ら演ずるなんて驚異的ですらあります。しかも、俳優としても、信じられないほど渋くかっこいいときている。「ダーティ・ハリー」とはもちろん違った魅力。
まだまだ俳優・クリント・イーストウッドも見てみたいと思いました。
「グラン・トリノ」≫Amazon.co.jp
2008年/米国/117分
【監督・製作】クリント・イーストウッド
【脚本】ニック・シェンク
【音楽】カイル・イーストウッド マイケル・スティーヴンス
【出演】クリント・イーストウッド/ウォルト・コワルスキー ビー・ヴァン/タオ・ロー アーニー・ハー/スー・ロー クリストファー・カーリー/ヤノビッチ神父
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ポーチのある家、ジッポのライター、酒場、悪漢、ヒロインが危険な目にあうとさっそうと助けにやってくる主人公…。
この映画に出てくる背景や小道具を改めて思い返してみると、こりゃ完全に「西部劇」ですな。派手な銃の撃ち合いがないだけで。主人公がまたがる「馬」がさしずめグラン・トリノか。いや、この映画では主人公がグラン・トリノに乗るシーンは一度も出てこないので、フォードのピックアップが彼の「馬」か。
要するに、西部劇の舞台を現代の米国に置き換えてみたのが、この映画。もちろん、クリント・イーストウッドは、西部劇を踏襲しながらも、あちこちに彼なりの濃い味付けを加えてますけどね。
西部劇では、白人とインディアンは容易には心を通わせられません。先住民族のインディアンにとっては、白人は自分たちの生活や文化を脅かす侵入者でしかなかったのですから(例外的に、「ダンス・ウィズ・ウルブス」(西部劇ではないけど)では、白人とインディアンの交流が描かれていますが)。
「インディアン」の代わりにこの映画に登場するのが「モン族」です。
モン族…。実は、インドシナ半島には、ややこしいことに、全く系統の異なる2つの「モン族」が存在するのです。
一つは、ミャンマー、タイに古くから住み、上座部仏教を信仰するモン族(Mon)。そして、もう一つは、中国南部の雲南地方からラオス、タイ、ミャンマー、ベトナムにかけて住む山岳民族のモン族(Hmong)。後者は、中国では「ミャオ(苗)族」と呼ばれますが、ただ、彼らの中には「ミャオ」を蔑称ととらえる人も多いらしく、ミャオを避けて、「モン族」と自称しています。日本語表記では、どちらも「モン」になってしまうので、どちらのモン族なのか、必ず断り書きが必要になります。
この映画に登場する「モン族」は、"Hmong"、つまり「ミャオ」のほうです。"Mon"と違って、"Hmong"は文字を持っていなかったこともあり、その歴史は謎に包まれています。ベトナム戦争の際、米国はインドシナ半島の共産化を防ぐために、彼らの一部を取り込んで共産勢力と戦わせました。戦後、ラオスに社会主義政権が樹立されると、米軍とともに戦ったモン族は、タイ領内に逃げ込み、さらに、そのうち約4万人が米国に移住しました。この映画に出てくるモン族は、そんな経緯で米国に住むことになった難民、もしくはその二世ということになります。
なぜこの映画でモン族が選ばれたのかはよくわかりませんが、イーストウッド監督は、キャスティングにあたって、中国人や日本人の俳優を使うことなく、実際に米国に住むモン族の人々から素人をオーディションで選んだのだそうです。彼らが話す言葉や食べ物、最後にちらっと出てくる民族衣装など、だからこそリアリティがある。
彼らの宗教は、自然に宿る精霊崇拝です。隣家に住むモン族のロー家のパーティに呼ばれた主人公ウォルト・コワルスキーが、祈祷師に「心を読み取られる」シーンがありました。祈祷師は、彼の顔を見て、こんなことを言います。
何を食べても味がなく、人生に迷っている
過去に過ちを犯して 自分を許すことができない
人生に幸せがなく 心の安らぎもない
かつて朝鮮戦争に従軍したウォルトは、帰国してフォードの工場に職を得、結婚して二人の息子にも恵まれます。でも、戦争での体験を思い出さない日はない。「13人かそれ以上」の敵を殺した経験は、今なお彼の脳裏から離れない。
人を殺すのは最悪な気分だ。それで勲章をもらって褒められるなんてもっと最悪だ。
息子たちは二人とも家を出て、それぞれに平和な家庭を築いているが、孫たちも含め、偏屈で融通のきかない彼をなんとなく避けている。妻を亡くしてからのち一人暮らしをするようになって、ますます彼の心は閉ざされていく。息抜きといえば、酒場や床屋での友人たちとのたわいもない会話、そして、彼自身が製造に関わった1972年製フォード「グラン・トリノ」をぴかぴかに磨き上げること。
そんなウォルトの生活に、ふとしたことからロー家が関わってくるようになる。彼自身は、アジア系の移民を「イエロー」と呼び、嫌悪感を抱いていました。それがなぜなのかは映画では語られませんが、モンの人々はそんなウォルトの感情さえ包み込んでいくのでした。
どうにもならない身内より この連中が身近に思える
まったく 情けない
そんなことをつぶやくウォルト。誰にも心を開かなかった彼が、モンの少年タオやその姉スーとつきあっていく中で、次第に「心の安らぎ」を取り戻していくのです。
しかし、彼の存在が、結果的にモン一家に悲劇をもたらしてしまうことになるとは…。
彼が大切にする「グラン・トリノ」というクルマは、力任せに世界を動かしてきた米国の象徴なのかもしれません。そして、ラストで、彼はものの見事に、そんな強さ、たくましさに見切りをつけるような幕切れを見せる。きっちりと。
これは紛れもなく「西部劇」です。つまり米国という国でしか作れない映画。でも、西部劇だからこそ、私たちはこの映画を見て自然に涙を流せるのですね。そして、ある程度予定調和的な展開も許せるというわけです。そこまで計算しているとすれば、やっぱりクリント・イーストウッドの演出力はたいしたものです。
役者としては今回が最後だと言っているようですが、そもそも、80歳近い人がこれだけの映画を監督するだけでなく、自ら演ずるなんて驚異的ですらあります。しかも、俳優としても、信じられないほど渋くかっこいいときている。「ダーティ・ハリー」とはもちろん違った魅力。
まだまだ俳優・クリント・イーストウッドも見てみたいと思いました。
「グラン・トリノ」≫Amazon.co.jp
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