昨日の記事に、以下のようないいコメントをいただいたので、この場を借りて、お返事を。3点ほどにまとめました。
塾の教師 (やっぴファン)
学校の教師と、塾の教師は、役目が違うように思います。
もし、人間的には問題があるが、勉強の教え方だけは職人的に上手な人がいたとしたら、その人は塾の教師になればよいと思います。
学校の教師は、総合力が必要だと思うのです。
とっても勉強したいと思っているが、残念ながら、理解力の足りない生徒がいたとして、その生徒が塾の教師の職人的教え方で勉強ができるようになるのなら、時間外にそういう助けを借りるのはよい事ではないですか?
ちょっと例は違うかもしれませんが、NOVAの被害者があんなにたくさんいるのを見ると、学校で役に立つ英会話を教えればよいのにと思ってしまいます。
「学校の教師と、塾の教師は、役目が違う」。それはまったくそのとおりですね。塾も地域社会の一員。子どもたちの教育には地域のいろんな人が関わることが必要、と常々言っていながら、「塾」に対しては私自身、ちょっとしたバイアスがかかっていたようです。「受験的勉強」を教えるプロである塾も、そういう立場から、地域の子どもたちの教育に関わっていいわけですね。それがたまたま学校という場所を借りて行われている、というだけのことなのかもしれませんね。
ただ、塾が「教育の営利企業」であることは忘れてはいけないのではと思っています。地域の子どもたちの教育のため、という理念のもとでは、関わる主体がどこであれ、基本的には「無償」であることが原則だと思います。きれいごとを言うようですが、そこは決して外してはならないと思うのです。受益者負担というなら、地域の子どもたち全員が受益者であるはずです。
つまり、地域の教育に「営利」を求める塾が関わるためには、よほどしっかりしたルールづくりをしておく必要があります。今回の和田中のケースの場合、支援する学習塾が「格安」でサービスするということですが…。普通に塾に通っている子どもたちとの公平性は保たれるのでしょうか。
次に、「総合力」について。「学校の教師には総合力が必要」とありますが、それは塾の先生と比べて…という意味でしょうか。確かに、学校の先生は、子どもたちと過ごす時間も長いし、教科指導以外にも、生徒指導や進路指導など、子どもたちと関わる多くのチャンネルを持たなければなりません。
ただ、どんなにすぐれた先生でも、教育において「総合力」を持つって、私は不可能なのではないかと思っています。よく「全人格(的)教育」とか平気で言う学校がありますが、とんでもない話ですね。学校が「全人格」を教育なんかできっこないのです。地域の子どもたちの教育に関しては、学校の先生、保護者、地域の人、役場の人、塾の先生、みんなどこか少しずつ「足りない」ので、それを補い合ってみんなで「総合力」としていけばいいのではととらえています。
NOVAについては、おっしゃるとおりですね。中学校・高校で6年間学んだ「英語」のベースの上に、より「実用的な」英会話のスキルを身につけるという英会話学校ならいいのですが、なんか、ちぐはぐだなあと思いますね。このことについては、前にも書きましたが、「英会話」というより、学校ではまず「コミュニケーションの手段としての英語」という枠組みが必要なのではないかと思っています。実際、小学校での英語導入に関して、そういう動きもあるようです。
塾の教師 (やっぴファン)
学校の教師と、塾の教師は、役目が違うように思います。
もし、人間的には問題があるが、勉強の教え方だけは職人的に上手な人がいたとしたら、その人は塾の教師になればよいと思います。
学校の教師は、総合力が必要だと思うのです。
とっても勉強したいと思っているが、残念ながら、理解力の足りない生徒がいたとして、その生徒が塾の教師の職人的教え方で勉強ができるようになるのなら、時間外にそういう助けを借りるのはよい事ではないですか?
ちょっと例は違うかもしれませんが、NOVAの被害者があんなにたくさんいるのを見ると、学校で役に立つ英会話を教えればよいのにと思ってしまいます。
「学校の教師と、塾の教師は、役目が違う」。それはまったくそのとおりですね。塾も地域社会の一員。子どもたちの教育には地域のいろんな人が関わることが必要、と常々言っていながら、「塾」に対しては私自身、ちょっとしたバイアスがかかっていたようです。「受験的勉強」を教えるプロである塾も、そういう立場から、地域の子どもたちの教育に関わっていいわけですね。それがたまたま学校という場所を借りて行われている、というだけのことなのかもしれませんね。
ただ、塾が「教育の営利企業」であることは忘れてはいけないのではと思っています。地域の子どもたちの教育のため、という理念のもとでは、関わる主体がどこであれ、基本的には「無償」であることが原則だと思います。きれいごとを言うようですが、そこは決して外してはならないと思うのです。受益者負担というなら、地域の子どもたち全員が受益者であるはずです。
つまり、地域の教育に「営利」を求める塾が関わるためには、よほどしっかりしたルールづくりをしておく必要があります。今回の和田中のケースの場合、支援する学習塾が「格安」でサービスするということですが…。普通に塾に通っている子どもたちとの公平性は保たれるのでしょうか。
次に、「総合力」について。「学校の教師には総合力が必要」とありますが、それは塾の先生と比べて…という意味でしょうか。確かに、学校の先生は、子どもたちと過ごす時間も長いし、教科指導以外にも、生徒指導や進路指導など、子どもたちと関わる多くのチャンネルを持たなければなりません。
ただ、どんなにすぐれた先生でも、教育において「総合力」を持つって、私は不可能なのではないかと思っています。よく「全人格(的)教育」とか平気で言う学校がありますが、とんでもない話ですね。学校が「全人格」を教育なんかできっこないのです。地域の子どもたちの教育に関しては、学校の先生、保護者、地域の人、役場の人、塾の先生、みんなどこか少しずつ「足りない」ので、それを補い合ってみんなで「総合力」としていけばいいのではととらえています。
NOVAについては、おっしゃるとおりですね。中学校・高校で6年間学んだ「英語」のベースの上に、より「実用的な」英会話のスキルを身につけるという英会話学校ならいいのですが、なんか、ちぐはぐだなあと思いますね。このことについては、前にも書きましたが、「英会話」というより、学校ではまず「コミュニケーションの手段としての英語」という枠組みが必要なのではないかと思っています。実際、小学校での英語導入に関して、そういう動きもあるようです。
もし可能であるなら、有償でも、お二人の授業を子供に、受けてもらいたい。
でも、いくら良い授業でも、和田先生の「世の中科」や「楽しい世界史」が今の受験制度には役に立つと思えません。
受験を教育の中心に考えるなら、当然カットされてしまう授業でしょう。
受験勉強は、塾というプロに1部委託するのも選択肢の一つであるのではと思いました。
しかし、営利とは考えませんでした。
学校の問題点の一つに「悪平等」があると思っています。
藤原さんが、「公民」の教科書はとても分かりづらく、つまらない記述であることを指摘されています。
公平性や事実を重視すると、あの様な記述になってしまうのでしょう。
「受験を教育の中心に考えるなら」…。
親としては、子どもの受験をまず第一に考えるのは当然だと思います。が、しかし、受験だけが教育のすべてではないとも思います。受験は一つの通過点でしかなく、その先にいったい何があるのかを親も学校の先生も塾の先生も、みんなが示してあげなければいけないのでは、というのが私の考えです。学校で学ぶ教科も清掃の時間も行事も、それからもちろん家庭で学ぶことも、学校以外の場所で学ぶことも、すべてが将来の生き方(≒働き方)につながっていくべきだと。
子どもの受験を間近に控えた親としては、そんな悠長なことを言ってられないと叱られそうですけど。通過点ではあるけれど、とっても大きな意味を持つ通過点には違いないので、そこに「選択と集中」するというのはとてもよくわかりますので。