カクレマショウ

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子どもたちの「逃げ場」

2010-12-19 | ■教育
朝日の池澤夏樹さんの連載「終わりと始まり」。12月8日付けは、「死んだ子供たちのために 閉鎖空間という地獄」。10月下旬に起こった群馬県の小学校6年生、上村明子さんの自殺、その1ヶ月後に起きた札幌の中学校2年生の少女の自殺。

痛ましいことである。
子供に選挙権を与えないのは判断力が未熟であるからだ。同じ論法から言えば、仮に人には自殺の権利があるとしても、子供はその権利を与えられるべきではない。子供をそんなところへ追い込んではいけない。


と池澤さんは書く。その通りだと思う。

池澤さんは、学校には「逃げ場」がないという。そして、内藤朝雄『いじめの構造』(講談社現代新書)を引用し、いじめのキーワードは「ノリ」だ、と言う。

「彼らの小社会では、ノリながらやるのであれば、何でも許されるが、『みんなから浮いて』しまったら、何をやっても許されない。中学生たちはその場その場のみんなのノリをおそれ、かしこみ、うやまい、大騒ぎをしながら生きている。」

池澤さんは、内藤氏に同調しつつ、学校の閉鎖性を憂える。学校は、軍隊をモデルにしていると。「服装や髪型などの形式的秩序の尊重、全員参加の強制、絶対服従。同じようなことはカルト集団の内部や、暴力団、学生運動の内ゲバなどにも見ることができる。文化大革命もポル・ポト政権の虐殺もそうだったかもしれない。」

そして、「人は閉鎖空間では正気を保つことができないのだ」と言う。学校という閉鎖空間では、子どもたちの逃げ場がない…。

一方、12月14日付けの毎日新聞には、「周囲気にするこどもたち」という記事。自殺した上村さんも「一人で給食を食べていた」ということですが、今の子どもたちは「一人にされる」ことを極端に怖がる。いつも自分が周囲にどう見られているかを気にしている。学校は、「周囲を過剰に気にせざるを得ない窮屈さで満ちているようだ」と記事は書く。

池澤さんの言うように、学校の閉鎖性を「カルト集団」や「暴力団」などと並べて論ずるのはあまりにも飛躍しすぎだと思いますが、「開かれた学校」と言いながら、学校がまだまだ閉じられた空間であることは間違いないことです。そして、学校の中でも、個々のクラスがさらに閉鎖的。自分のクラスの問題を他の教員に知られたくないと考える担任も決して少なくない。

先日、ねぶた・ねぷたづくりで子どもたちに関わっている人と話す機会があって、彼が子どもたちと接する時に気をつけているのは、「みんな同じようには接しない」ということなのだそうです。つまり、一人一人の子どもによって、接し方を変える。それは、親の要望(今日はちょっと厳しく叱って欲しい、とか)にもよるのだそうですが、子どもたちの持っているもの、性格、あるいはその日の気分を敏感に感じ取って、ちゃんと「個人」として見ているからそういうことができるのでしょう。そういう場では、子どもたちもきっと学校とは別の顔をしているに違いない。

学校という「閉鎖空間」だけじゃなく、地域にそういう場があって、「先生」や「親」とは違う接し方をしてくれる大人がいることは子どもたちにとって幸せなことだと思います。そこが「逃げ場」であってもいい。周囲を気にすることもなく、自分を認めてもらえる場であれば。

学校の閉鎖性も何とかしなくちゃいけない問題ですが、地域にそういう場をつくることも大切ですね。

 

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