第二部 コゼット
第八編 墓地は与えられるものを受納す(岩波文庫第2巻p.273~p.364)その3
それから一時間の後、まっくらな夜の中を、二人の男と一人の子供とが、ピクプュス小路の六十二番地に現われた。年取った方の男が槌を取り上げて、呼鐘をたたいた。
その三人は、フォーシュルヴァンとジャン・ヴァルジャンとコゼットであった。
棺の中から無事「生き返る」ことができたジャンは、フォーシュルヴァンがあるお上さんに一晩預けていたコゼットを連れにいき、晴れて修道院に戻ってきます。「出てまたはいる」という困難な問題はこうしてクリアされたのです。
ジャンは、修道院長の面接のあと、正式に「ユルティム・フォーシュルヴァン」として園丁として働くことが許されます。彼の「孫娘」コゼットは、給費生として寄宿舎に入ることになりました。それらはすべてフォーシュルヴァンのおかげです。
彼は三重の成功を博した。ジャン・ヴァルジャンに対しては、救ってかくまってやり、墓掘り人グリビエに対しては、罰金を免れさせてもらったと思わせ、修道院に対しては、祭壇の下にクリュシフィクシオン長老の柩(ひつぎ)を納めて、シーザーの目をくぐり神を満足させてやった。
ジャンとコゼットを院内に留めることを許可したのも、フォーシュルヴァンへの院長のお礼の意味もあったのでしょう。コゼットとジャンは、1日のうち1時間だけそばで過ごすことさえ許されるのです。ジャンは優れた園丁としてせっせと働き、コゼットは修道女としての教育を受ける機会を与えられます。コゼットの表情から「陰鬱な陰」が消え失せ、寄宿舎の友人たちと笑い戯れることも多くなります。
ジャンとコゼットにもたらされた平和で穏やかな日々。ジャンは、修道院での生活をかつて自らが体験した「もう一つの幽囚の場所」と比較します。そこにいた男たちの、みじめで汚辱にまみれた生活を思い出し、今自分がいる「潔白」の場所と比べるのです。
一方には毒気、他方には言うべからざる香気。一方には、世の視線をへだてられ大砲の下に閉じこめられて徐々に患者を食い荒しつつある精神的疫病。他方には、同じ竈(かまど)の中のすべての魂の清浄なる焔(ほのお)。彼方には暗黒、此方には影。しかも明るみに満ちた影であり、光輝に満ちた明るみである。
牢獄と修道院。まったく対称的な二つの場所で、しかし、人々は同じことをしていることにジャンは気づきます。それは「贖罪」です。前者の贖罪については、彼は良く理解できます。自分自身が犯した罪に対する贖罪。しかし、「何らの汚点もない婦人らの贖罪」については、すんなり了解することができない。
一つの声が彼の内心で答えた。「人間の仁慈のうちで最も神聖なるもの、すなわち他人のための贖罪である。」
ジャンは、かつて自分が「神に対してこぶしを差し向けた」ことを深く悔い、そのことを思うと「全身の血が凍る思いをした」。彼は修道女たちと生活を共にすることで、再び、あのミリエル司教の「聖なる命令」に導かれるのを感じます。彼を迎えてくれた「二つの神の住居」。一つは、「すべての戸がとざされ、人間社会から拒まれた時」に、もう一つは「人間社会から再び追跡され徒刑場が再び口を開いた時」に彼を迎え入れてくれました。前者がなければ彼は再び罪悪の道を転落していたに違いなく、後者がなければ再び苦難が待っていたでしょう。そのことに気づいたジャンは、「一切の傲慢」は影を潜め、「ますます愛の念を深く」することになるのです。
幾年かがかくして過ぎ去った。コゼットもしだいに生長していた。
これで「第二部 コゼット」は幕を閉じます。本当にうまい幕の閉じ方です。ゆったりと、心地よい余韻を残しながら、同時に、新たな展開に期待を抱かせてくれます。
次回から「第三部 マリユス」をたどっていきたいと思います。
第八編 墓地は与えられるものを受納す(岩波文庫第2巻p.273~p.364)その3
それから一時間の後、まっくらな夜の中を、二人の男と一人の子供とが、ピクプュス小路の六十二番地に現われた。年取った方の男が槌を取り上げて、呼鐘をたたいた。
その三人は、フォーシュルヴァンとジャン・ヴァルジャンとコゼットであった。
棺の中から無事「生き返る」ことができたジャンは、フォーシュルヴァンがあるお上さんに一晩預けていたコゼットを連れにいき、晴れて修道院に戻ってきます。「出てまたはいる」という困難な問題はこうしてクリアされたのです。
ジャンは、修道院長の面接のあと、正式に「ユルティム・フォーシュルヴァン」として園丁として働くことが許されます。彼の「孫娘」コゼットは、給費生として寄宿舎に入ることになりました。それらはすべてフォーシュルヴァンのおかげです。
彼は三重の成功を博した。ジャン・ヴァルジャンに対しては、救ってかくまってやり、墓掘り人グリビエに対しては、罰金を免れさせてもらったと思わせ、修道院に対しては、祭壇の下にクリュシフィクシオン長老の柩(ひつぎ)を納めて、シーザーの目をくぐり神を満足させてやった。
ジャンとコゼットを院内に留めることを許可したのも、フォーシュルヴァンへの院長のお礼の意味もあったのでしょう。コゼットとジャンは、1日のうち1時間だけそばで過ごすことさえ許されるのです。ジャンは優れた園丁としてせっせと働き、コゼットは修道女としての教育を受ける機会を与えられます。コゼットの表情から「陰鬱な陰」が消え失せ、寄宿舎の友人たちと笑い戯れることも多くなります。
ジャンとコゼットにもたらされた平和で穏やかな日々。ジャンは、修道院での生活をかつて自らが体験した「もう一つの幽囚の場所」と比較します。そこにいた男たちの、みじめで汚辱にまみれた生活を思い出し、今自分がいる「潔白」の場所と比べるのです。
一方には毒気、他方には言うべからざる香気。一方には、世の視線をへだてられ大砲の下に閉じこめられて徐々に患者を食い荒しつつある精神的疫病。他方には、同じ竈(かまど)の中のすべての魂の清浄なる焔(ほのお)。彼方には暗黒、此方には影。しかも明るみに満ちた影であり、光輝に満ちた明るみである。
牢獄と修道院。まったく対称的な二つの場所で、しかし、人々は同じことをしていることにジャンは気づきます。それは「贖罪」です。前者の贖罪については、彼は良く理解できます。自分自身が犯した罪に対する贖罪。しかし、「何らの汚点もない婦人らの贖罪」については、すんなり了解することができない。
一つの声が彼の内心で答えた。「人間の仁慈のうちで最も神聖なるもの、すなわち他人のための贖罪である。」
ジャンは、かつて自分が「神に対してこぶしを差し向けた」ことを深く悔い、そのことを思うと「全身の血が凍る思いをした」。彼は修道女たちと生活を共にすることで、再び、あのミリエル司教の「聖なる命令」に導かれるのを感じます。彼を迎えてくれた「二つの神の住居」。一つは、「すべての戸がとざされ、人間社会から拒まれた時」に、もう一つは「人間社会から再び追跡され徒刑場が再び口を開いた時」に彼を迎え入れてくれました。前者がなければ彼は再び罪悪の道を転落していたに違いなく、後者がなければ再び苦難が待っていたでしょう。そのことに気づいたジャンは、「一切の傲慢」は影を潜め、「ますます愛の念を深く」することになるのです。
幾年かがかくして過ぎ去った。コゼットもしだいに生長していた。
これで「第二部 コゼット」は幕を閉じます。本当にうまい幕の閉じ方です。ゆったりと、心地よい余韻を残しながら、同時に、新たな展開に期待を抱かせてくれます。
次回から「第三部 マリユス」をたどっていきたいと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます