カクレマショウ

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『レ・ミゼラブル』覚え書き(その32)

2007-10-08 | └『レ・ミゼラブル』
第三部 マリユス
第七編 パトロン・ミネット(岩波文庫第2巻p.596~p.611=第2巻了)

5ヶ月近く間が空いてしまいました。今回は、岩波文庫で言えば、第2巻に収められている最後の編。…これで『レ・ミゼラブル』全4巻のちょうど半分が「覚え書き」されることになります。あと残り半分か…。先は長い。

例によって、ユゴーは本筋から離れて、突然、カンケーない話を始める。酒席で「くどい」人ってよくいますよね。こちらの意志にはカンケーなく、どうでもいい話(聞いている人にとっては)をくどくどと語る人。相手には一切口を挟ませない。滔々と自説を語っているぶんにはまだいいのですが、人の悪口を言い始めたり、矛先が話している相手に向けられるとなると、俄然タチが悪い。

…いえ、ユゴーがそういう「くどい」人だって言いたいわけではなく。よしんばそうだとしても、これは「本」ですから、くどい話はすっ飛ばしてもらって一向にかまわない。ただ、本筋には直接カンケーないとはいえ、やはりそこはユゴー。こういう「くどい話」の中にも、彼の鋭い観察力を楽しむことができます。もちろん、超大作『レ・ミゼラブル』の、「この部分」でこういう話を持ってくるのは、十分意味のあることではあります。

この短い編では、1830年から1835年までのパリ市民を震え上がらせた悪漢4人組「パトロン・ミネット」に言及しています。「パトロン・ミネット」とは、直訳すれば「子猫親方」。

日々に消えうせつつある古い不思議な俗語では、パトロン・ミネット(子猫親方)というのは、朝の意味であって、犬と狼の間というのが夕の意味であるのと同じである。

「子猫親方」がなにゆえに「朝」を意味するのか、とんと理解できませんが、悪党4人組をパトロン・ミネットと呼ぶのは、彼らが「仕事」を終えるのが夜明けだからということらしい。それにしても、かわいすぎる呼び名。

4人組、クラクズー、グールメル、バベ、モンパルナスについて、ユゴーは詳細にその行状を述べているわけではありません。しかし、極めて端的にしかも的確にそれぞれの特徴を表現してくれるのは、まったくユゴーらしいと言わざるを得ません。たとえば、「あたかも失脚したヘラクレスのような男」グールメルを描写したあと、こんなふうに説明が続く。

バベの小柄なのは、グールメルの粗大と対照をなしていた。バベはやせており、また物知りだった。身体は薄いが、心は中々見透かし難かった。その骨を通して日の光は見られたが、その瞳を通しては何物も見られなかった。

18歳にして既に多くの殺人を犯し、まだ20歳にも満たない、きれいな顔をした人殺し、モンパルナスについての説明も印象深い。

悪を消化しつくしたので、更にひどい悪を渇望していた。浮浪少年から無頼漢となり、無頼漢から強盗と変じたのである。やさしく、女らしく、品があり、頑健で、しなやかで、かつ獰猛(どうもう)だった。

ユゴーは、社会を鉱山にたとえています。宗教の坑道、哲学の坑道、政治の坑道、経済の坑道、革命の坑道といった様々な坑道が入り組んでいる。ただし、これらの坑道はあくまでも「上部」に存在する坑道であって、もっと深いところを走る坑道には、「悪」の坑道があるのです。そこに働く労働者は、人間というよりもはや「野獣」であり「怪物」である。「人間の呼吸し得べき範囲を越えたところ」なのですから。彼らは、上部の坑道に対して根強い敵対心を持っている。

こうした比喩は、現実と重なるところがあります。かつて迫害されたキリスト教徒たちは地下に作られたカタコンベという墓所で信仰を守りました。キリスト教を「悪」とみなしていた当時の上層坑道にとっては、彼らは「怪物」だったわけです。また、パリの地下に張り巡らされた下水道は、実際に犯罪者たちの隠れ家でもありました。まさに『レ・ミゼラブル』の後半、重要な舞台としてその地下水道が登場します。

ところで、犯罪の原因というのは、いろいろなのでしょうね。恨み、そねみ、嫉妬、怒り、悲しみ、苦しみ、迷い、虚栄、欲望…。特に「殺人」という犯罪に関しては、それらのどれもが当てはまるような気がします。日常生活の片隅にあって、人が人を殺すというのは、その方法や状況にかかわらず、それだけ「異常」な精神状態がもたらす結果だということでしょう。理不尽に愛する者を殺された遺族は、犯人を「殺したい」ほど憎んでいるだろうことは容易に予想できます。でも実際には、犯人を「殺す」までに至る人は滅多にいません。それは、殺人という行為の「異常性」がよくわかっているからなのではないのでしょうか。理由はどうあれ、たとえ犯人に人間性のカケラもないような人間だったとしても、人を殺すことは「異常」なことで、それを犯すことは自分もその異常性に呑み込まれてしまうことになる。「あいつ(犯人)と同じ人殺しになってしまう」ことを避けたいと思うのは、人間としての矜持ですね。

さて、「野獣」が跋扈する地下世界というユゴーのとらえ方は、「地獄」の考え方と通じるものがあるのでしょう。地下の奈落、どん底は、もちろん「地獄と通じている」のです。ユゴー自身が書いているように、第三部第四編「ABCの友」で、「上層の鉱区の一つ、すなわち政治的革命的哲学的の大坑道の一つを見てきた」

既に述べたとおりそこにおいては、すべてが気高く、純潔で、品位あり、正直である。そこにおいても確かに、人は誤謬(ごびゅう)に陥ることがあり、また実際陥っていてもいる。しかし壮烈さを含む間はその誤謬も尊むべきである。そこでなさるる仕事の全体は、進歩という一つの名前を持っている。

逆に言えば、「進歩」がないどん底での誤謬(=誤り)は唾棄すべきものとユゴーは言いたいのでしょう。その「無知の洞窟」を排除することが、上層で仕事をする者たちの目的となる。

無知の洞窟を破壊することは、やがて罪悪の巣窟を破壊することである。

ユゴーのこうした考え方は、しかし、次のような「人間観」に基づいています。

人類はただ一つである。人はすべて同じ土でできている。少なくともこの世にあっては、天より定められた運命のうちには何らの相違もない。過去には同じやみ、現世には同じ肉、未来には同じ塵(ちり)。しかしながら、人を作る揑粉(ねりこ)に無知が交じればそれを黒くする。その不治の黒色は、人の内心にしみ込み、そこにおいて悪となる。

「無知」こそが人間を犯罪者にする。かつて『無知の涙』を書いた死刑囚・永山則夫も『レ・ミゼラブル』を読んでいたのでしょうか…。

ユゴーは、この物語の後半において、いよいよ本格的な「悪」を登場させていきます。そして、その「悪」と「光明」との対決が生き生きと描き出されていきます。

そういう悪鬼を消散させんには、何が必要であるか。光明である。漲溢(ちょういつ)せる光明である。曙(あけぼの)の光に対抗し得る蝙蝠(こうもり)は一つもない。どん底から社会を照らすべきである。


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