第三部 マリユス
第一編 パリーの微分子(岩波文庫第2巻p.367~p.400)
『レ・ミゼラブル』覚え書きも、ようやく第三部までたどり着きました。
第一部 ファンティーヌ。第二部 コゼット。そして第三部は「マリユス」。この壮大な物語の後半の最重要人物、マリユスがいよいよ登場します。
別にもったいをつけているわけでもないのでしょうが、ユゴーはいつものとおり、そう簡単にはマリユスを登場させてくれません。まずはこの開幕編で、マリユスを生んだ「パリー」という街を、若干の皮肉を込めつつほめたたえるところから始まります。
『レ・ミゼラブル』の舞台となった19世紀前半のフランスは、政体がめまぐるしく変わる、歴史上他に例を見ない激動の時代でした。前世紀末に起こったフランス革命を契機として、絶対王政、立憲君主制、共和制、帝政とほとんどあらゆる政体が短期間で交替しています。そんな中で、「民衆」が着々と力をつけていきます。一部の特権階級ではない、多くの民衆が政治や社会を動かす原動力となっていったのです。
ユゴーは、そんなフランスの首都パリの社会に注意深く目を向けていきます。
パリーはコスモス(宇宙)と同意義の語である。パリーはアテネであり、ローマであり、シバリスであり、エルサレムであり、パンタンである。パリーにはあらゆる文明が概括され、またあらゆる野蛮が概括されている。パリーは一つの断頭台を欠いても気を悪くするだろう。
『レ・ミゼラブル』という壮大な物語の舞台は、そのほとんどがパリです。パリという街なくしては成立し得ない物語だとも言えます。この部分に限らず、ユゴーの文章からは、パリという街とそこに住む人々へのこよなき愛情を感じずにはいられません。
そして、そんなパリの社会を象徴するものとして、ユゴーは「浮浪少年」を挙げます。彼らをユゴーは「Gamin」(ガマン)という語で表現しています。「この語が初めて印刷の上に現れたのは1834年のことであり、その語は一般に通用されるに至った」と、まるで聞いた話のように書かれていますが、訳注によれば、これもユゴーの作った言葉だとか。
ユゴーはガマンの生活をこんなふうに生き生きと描き出します。
この小さな人間は、至って快活である。彼らは毎日の食事もしていない、しかも気が向けば毎晩興業物を見に行く。肌にはシャツもつけず、足には靴もはかず、身をおおう屋根もない。まったくそういうものを持たない空飛ぶ蠅にようである。七歳から十三歳までで、隊を組んで生活し、街路を歩き回り、戸外に宿り、踵(かかと)の下までくる親譲りの古いズボンをはき、耳まで隠れてしまうほかの親父からの古帽子をかぶり、縁の黄色くなった一筋きりのズボンつりをつけ、駆け回り、待ち伏せし、獲物をさがし回り、時間を浪費し、パイプをくゆらし、暴言を吐き、酒場に入りびたり、盗人と知り合い、女とふざけ、隠語を使い、卑猥な歌を歌い、しかもその心のうちには何らの悪もないのである。その魂のうちにあるものは、一つの真珠たる潔白である。真珠は泥の中にあってもとけ去らね。人が年少である間は、神も彼が潔白ならんことを欲する。
パリーの浮浪少年は…表面いかにも摩滅され痛めつけられてはいるが、内部においてはほとんど純然たるままである。
パリに限らず、19世紀のヨーロッパ各地の大都市にはこのような浮浪少年が多く存在したと考えられます。親が養い切れなくなって捨てられた子どもたちは、都会の片隅でたくましく自分の力で生きていくしか道はありません。彼らのそんなパワーがパリの発展を底辺部分で支えていたのかもしれません。
もし広大なる都市に向かって、「あれは何だ?」と尋ねるならば、都市は答えるだろう、「あれは私の子供だ。」
浮浪少年はパリーを表現し、パリーは世界を表現する。
また、ユゴーはこんなふうにも書いています。
パリーの民衆は、たとい大人に生長しても、常に浮浪少年(ガマン)である。
パリの市民自体が、ガマンのような強さとたくましさ、そしてしたたかさを持っていた時代だったということでしょうか。でなければ、あのように、短期間に続けざまに「革命」が起こるはずがありませんから。
さて、パリからガマンへと上手に絞られてきた焦点は、ある一人の少年にピントが合っていきます。それがガヴローシュです。彼は自分の家も両親もわかっています。「3ヶ月に一度」ぐらいは「家」に帰るのです。帰っても笑顔で迎えられることはないのに。
彼の両親の名はジョルドレッド。娘二人(つまりガヴローシュの姉)とともに彼らが住むのは例のゴルボー屋敷です。そして、彼らの隣の部屋に住む貧しい青年、彼がマリユスなのです。
第一編 パリーの微分子(岩波文庫第2巻p.367~p.400)
『レ・ミゼラブル』覚え書きも、ようやく第三部までたどり着きました。
第一部 ファンティーヌ。第二部 コゼット。そして第三部は「マリユス」。この壮大な物語の後半の最重要人物、マリユスがいよいよ登場します。
別にもったいをつけているわけでもないのでしょうが、ユゴーはいつものとおり、そう簡単にはマリユスを登場させてくれません。まずはこの開幕編で、マリユスを生んだ「パリー」という街を、若干の皮肉を込めつつほめたたえるところから始まります。
『レ・ミゼラブル』の舞台となった19世紀前半のフランスは、政体がめまぐるしく変わる、歴史上他に例を見ない激動の時代でした。前世紀末に起こったフランス革命を契機として、絶対王政、立憲君主制、共和制、帝政とほとんどあらゆる政体が短期間で交替しています。そんな中で、「民衆」が着々と力をつけていきます。一部の特権階級ではない、多くの民衆が政治や社会を動かす原動力となっていったのです。
ユゴーは、そんなフランスの首都パリの社会に注意深く目を向けていきます。
パリーはコスモス(宇宙)と同意義の語である。パリーはアテネであり、ローマであり、シバリスであり、エルサレムであり、パンタンである。パリーにはあらゆる文明が概括され、またあらゆる野蛮が概括されている。パリーは一つの断頭台を欠いても気を悪くするだろう。
『レ・ミゼラブル』という壮大な物語の舞台は、そのほとんどがパリです。パリという街なくしては成立し得ない物語だとも言えます。この部分に限らず、ユゴーの文章からは、パリという街とそこに住む人々へのこよなき愛情を感じずにはいられません。
そして、そんなパリの社会を象徴するものとして、ユゴーは「浮浪少年」を挙げます。彼らをユゴーは「Gamin」(ガマン)という語で表現しています。「この語が初めて印刷の上に現れたのは1834年のことであり、その語は一般に通用されるに至った」と、まるで聞いた話のように書かれていますが、訳注によれば、これもユゴーの作った言葉だとか。
ユゴーはガマンの生活をこんなふうに生き生きと描き出します。
この小さな人間は、至って快活である。彼らは毎日の食事もしていない、しかも気が向けば毎晩興業物を見に行く。肌にはシャツもつけず、足には靴もはかず、身をおおう屋根もない。まったくそういうものを持たない空飛ぶ蠅にようである。七歳から十三歳までで、隊を組んで生活し、街路を歩き回り、戸外に宿り、踵(かかと)の下までくる親譲りの古いズボンをはき、耳まで隠れてしまうほかの親父からの古帽子をかぶり、縁の黄色くなった一筋きりのズボンつりをつけ、駆け回り、待ち伏せし、獲物をさがし回り、時間を浪費し、パイプをくゆらし、暴言を吐き、酒場に入りびたり、盗人と知り合い、女とふざけ、隠語を使い、卑猥な歌を歌い、しかもその心のうちには何らの悪もないのである。その魂のうちにあるものは、一つの真珠たる潔白である。真珠は泥の中にあってもとけ去らね。人が年少である間は、神も彼が潔白ならんことを欲する。
パリーの浮浪少年は…表面いかにも摩滅され痛めつけられてはいるが、内部においてはほとんど純然たるままである。
パリに限らず、19世紀のヨーロッパ各地の大都市にはこのような浮浪少年が多く存在したと考えられます。親が養い切れなくなって捨てられた子どもたちは、都会の片隅でたくましく自分の力で生きていくしか道はありません。彼らのそんなパワーがパリの発展を底辺部分で支えていたのかもしれません。
もし広大なる都市に向かって、「あれは何だ?」と尋ねるならば、都市は答えるだろう、「あれは私の子供だ。」
浮浪少年はパリーを表現し、パリーは世界を表現する。
また、ユゴーはこんなふうにも書いています。
パリーの民衆は、たとい大人に生長しても、常に浮浪少年(ガマン)である。
パリの市民自体が、ガマンのような強さとたくましさ、そしてしたたかさを持っていた時代だったということでしょうか。でなければ、あのように、短期間に続けざまに「革命」が起こるはずがありませんから。
さて、パリからガマンへと上手に絞られてきた焦点は、ある一人の少年にピントが合っていきます。それがガヴローシュです。彼は自分の家も両親もわかっています。「3ヶ月に一度」ぐらいは「家」に帰るのです。帰っても笑顔で迎えられることはないのに。
彼の両親の名はジョルドレッド。娘二人(つまりガヴローシュの姉)とともに彼らが住むのは例のゴルボー屋敷です。そして、彼らの隣の部屋に住む貧しい青年、彼がマリユスなのです。
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