中央教育審議会の外国語専門部会が、小学校5年から週1時間程度の英語を必修化すべきであるとの提言を出しました。いずれ、正式な教科として英語を必修化することにつなげたいとの方針のようです。
小学校での英語教育を主張する側に必ずその理由として出てくるのが「グローバル化」というわかっているようでわからない言葉です。"global"とは、「全世界の/地球規模の」という意味です。主に経済の分野で使われる言葉ですが、社会のグローバル化、文化のグローバル化といった使い方もされます。要するに「世界が一体化」しつつあるということを表す時に使われます。
グローバル化は、現代において初めて生まれた概念ではありません。16世紀の大航海時代とそれに続く征服の時代にも「世界の一体化」は進んだし、19世紀末の帝国主義の時代には列強─植民地という図式の中で世界はグローバル化しました。前者においては、スペイン語が南米諸国の共通語となったし、後者において世界共通語の地位を確立したのが言うまでもなく「英語」だったわけです。
現代のグローバル化の原動力となっているのが「情報通信革命」です。特に、インターネットは世界のグローバル化の強力なドライブとなっています。世界中のありとあらゆる情報が、家や職場にいながらにして瞬時に手に入るのですから。
このように世界のグローバル化が進む中で、100年後200年後はいざ知らず、ここしばらくは英語が国際共通語であり続けることはまちがいないと思われます。したがって、これからの日本人は英語に堪能でなければ国際舞台で活躍することはできない。
ここまではわかります。しかし、問題はその次です。英語に堪能な日本人を育てるためには、中学校からではなく、もっと早くから、つまり小学校から英語を学ばせなければならない、という。そこがよくわからない。
現在の小学校で学ぶことになっている「教科」は、どれもそれなりに意味があるものだと思っています。大人になって、社会で生きていくために誰もが必要な学習内容だと思います。しかし、英語に関してはどうでしょうか。英語を読んだり話せたりすることは、「すべての日本人に」必要な要素と言えるでしょうか?
たとえば、近所に英語を話す(英語しか話せない)外国人が住んでいて、しかも彼らと日常的に英語で会話をする必要がある日本人がどれだけいるでしょうか。あるいは、インターネットで英語で書かれたサイトを日常的に読む必要がある日本人がどれだけいるというのでしょうか。つまり、英語を話せれば「便利」だし、英語を読んだり書けたりできないよりはできた方がいい。そんなレベルの話なのです。ですから、英語を小学校の授業で学ばせたり、ましてや「教科」の一つに加えて必修化するなんて、ナンセンスだと思うのです。
日本の社会構造は確かにグローバル化に組み込まれているのだろうけれど、肝心の「人」については、決して「グローバル化」なんてされていないのです。生きていく上で、あるいは仕事上、どうしても英語が必要な人はその時点で勉強すればいい話です。それが遅いというなら、中学校、高校の段階で、将来のキャリアを見通した、必要な人が必要なだけ学習できるような英語教育のシステムを作るべきです。
よく言われることですが、日本の英語教育は、中・高6年間も費やしながらほとんど「役に立たない」とされます。もしそうであるなら、現状の英語教育のまま、スタートを小学校まで繰り下げたって何も変わらない。「グローバル化」に対応した、「役に立つ」英語を身につけた人材を育てようとするなら、中・高の英語教育を根本から見直す方が先決だと思うのですが…。
どうしても英語を小学校で、というなら、私は「コミュニケーション」という教科を作って、その中で英語によるコミュニケーションの特徴、といったようなことを教えるべきではないかと思っています。もちろん、基本は「日本語によるコミュニケーション」です。まず日本語で正しく美しく、お互いの意思を伝え合うことをきちんと学ぶ。それから、英語(やその他の言語)と比較しながら日本語のコミュニケーションを考える、という次の段階に移っていく。小学校の英語はそんな程度で位置づけたらどうでしょうか。あくまでも言語はコミュニケーションの手段である、ということをまずは明確にするべきだと思っています。
小学校での英語教育を主張する側に必ずその理由として出てくるのが「グローバル化」というわかっているようでわからない言葉です。"global"とは、「全世界の/地球規模の」という意味です。主に経済の分野で使われる言葉ですが、社会のグローバル化、文化のグローバル化といった使い方もされます。要するに「世界が一体化」しつつあるということを表す時に使われます。
グローバル化は、現代において初めて生まれた概念ではありません。16世紀の大航海時代とそれに続く征服の時代にも「世界の一体化」は進んだし、19世紀末の帝国主義の時代には列強─植民地という図式の中で世界はグローバル化しました。前者においては、スペイン語が南米諸国の共通語となったし、後者において世界共通語の地位を確立したのが言うまでもなく「英語」だったわけです。
現代のグローバル化の原動力となっているのが「情報通信革命」です。特に、インターネットは世界のグローバル化の強力なドライブとなっています。世界中のありとあらゆる情報が、家や職場にいながらにして瞬時に手に入るのですから。
このように世界のグローバル化が進む中で、100年後200年後はいざ知らず、ここしばらくは英語が国際共通語であり続けることはまちがいないと思われます。したがって、これからの日本人は英語に堪能でなければ国際舞台で活躍することはできない。
ここまではわかります。しかし、問題はその次です。英語に堪能な日本人を育てるためには、中学校からではなく、もっと早くから、つまり小学校から英語を学ばせなければならない、という。そこがよくわからない。
現在の小学校で学ぶことになっている「教科」は、どれもそれなりに意味があるものだと思っています。大人になって、社会で生きていくために誰もが必要な学習内容だと思います。しかし、英語に関してはどうでしょうか。英語を読んだり話せたりすることは、「すべての日本人に」必要な要素と言えるでしょうか?
たとえば、近所に英語を話す(英語しか話せない)外国人が住んでいて、しかも彼らと日常的に英語で会話をする必要がある日本人がどれだけいるでしょうか。あるいは、インターネットで英語で書かれたサイトを日常的に読む必要がある日本人がどれだけいるというのでしょうか。つまり、英語を話せれば「便利」だし、英語を読んだり書けたりできないよりはできた方がいい。そんなレベルの話なのです。ですから、英語を小学校の授業で学ばせたり、ましてや「教科」の一つに加えて必修化するなんて、ナンセンスだと思うのです。
日本の社会構造は確かにグローバル化に組み込まれているのだろうけれど、肝心の「人」については、決して「グローバル化」なんてされていないのです。生きていく上で、あるいは仕事上、どうしても英語が必要な人はその時点で勉強すればいい話です。それが遅いというなら、中学校、高校の段階で、将来のキャリアを見通した、必要な人が必要なだけ学習できるような英語教育のシステムを作るべきです。
よく言われることですが、日本の英語教育は、中・高6年間も費やしながらほとんど「役に立たない」とされます。もしそうであるなら、現状の英語教育のまま、スタートを小学校まで繰り下げたって何も変わらない。「グローバル化」に対応した、「役に立つ」英語を身につけた人材を育てようとするなら、中・高の英語教育を根本から見直す方が先決だと思うのですが…。
どうしても英語を小学校で、というなら、私は「コミュニケーション」という教科を作って、その中で英語によるコミュニケーションの特徴、といったようなことを教えるべきではないかと思っています。もちろん、基本は「日本語によるコミュニケーション」です。まず日本語で正しく美しく、お互いの意思を伝え合うことをきちんと学ぶ。それから、英語(やその他の言語)と比較しながら日本語のコミュニケーションを考える、という次の段階に移っていく。小学校の英語はそんな程度で位置づけたらどうでしょうか。あくまでも言語はコミュニケーションの手段である、ということをまずは明確にするべきだと思っています。
歴史が好きなので、調べ物をしている時にこちらに辿りつきました。楽しく勉強になるサイトですね。
英語教育ですが、全く同感です。
教育内容を見直さないで、学習年齢だけ下げたってって思います。
それに、英語が必修になる分、他の教科への皺寄せも心配です。
それと、「コミュニケーション」の教科をと言うご意見には、大賛成。
やっぴさんの着眼点って、いつも鋭いですね。
うちの子供はコミュニケーションが苦手な障害である自閉症なんですが、
最近は障害の有無に関わらず、コミュニケーション能力の低下が著しいように感じます。
本来なら普通に身に着けていけるものだから、問題視しない人が多いのかもしれませんが、現状を見ると将来が不安になってきます。
でも、「英語よりコミュニケーションの授業を!」と訴えても、学力重視偏重なのは変わらないんでしょうね。
親からして、「コミュニケーションより英語!」って言いそうな人が多そうだし・・・。
因みに、うちは自閉症児でありながら、英語教室に通っております・・・(^^ゞ
コメントありがとうございます。
「親からして、コミュニケーションより英語!」
ってほんとにそうですね。
そもそも「英語の学力」っておかしいと思いませんか?本来コミュニケーションのツールのはずなのに、
それを「学力」という物差しで測ること自体がヘンな話だと思います。言語学として英語を研究するなら別ですが。
お子さんは楽しく英語教室に通っていますか?
「英語を勉強する」じゃなくて、コミュニケーションの手段の一つとして、自然に触れていけたらいいですね。
障害と知る前に入ったのですが、元々言葉の発達が遅く、日本語も満足に話せないのに良かったのか?と思い、いつ止めさせようか・・・と思ってたりしてたんです。
でも、子供自身は楽しく通っていて、英語を通して『言葉』の存在の意味を理解してくれたので、その後の日本語の発達にも役立ってくれたと思います。
基本的に、楽しく学べないものは押し付けない主義なので、嫌がったら止めさせようと思いながらかれこれ4年が経ちました。
将来的に英会話が出来るようになるとは思っていないので、いつまで続けられるかしら?と相変わらず思う日々なんですが、本人はとにかく楽しんでいます。
言葉は意思疎通や自分を表現する為の手段の1つですから、現行の英語教育の内容はもっと見直されてしかるべきだと思います。
それに、英語に限らず、楽しくない勉強は身に付かないと思いますし。
「英語を通して『言葉』の存在の意味を理解してくれた」…
とってもいいですね。
この前の読売新聞にも賛成派、反対派の意見が載っていましたが、どっちの主張にも「コミュニケーション」という言葉が一言も出てこないので、やれやれという感じです。
ラーメンアスクミーこと手塚と申します。
yahooで「ユナイテッド93」を検索し、こちらのブログにたどり着きました。
さらに、英語の記事を見つけたので、コメントしたくなりました。
私の考え:やっぴさんのおっしゃるとおりです。
なんのために英語が必要か?それは、人と接し理解を深めるためです。愛があれば言葉なんて・・・とも言われますが、伝えたいことがあれば、ジェスチャーだって、それこそ日本語だって相手に通じることは可能だと私は考えます。そこには、伝えたいという熱い思いがあるかどうかだと思います。
言葉という方法をつかえば、より理解が加速度的に深まるのも事実です。
また、相手に理解したい、関係を深めたいという心構えがあるかどうかです。
つまり、ひとことで言えば、人はなぜコミュニケーションが必要かということにもなると思います。
ですので、コミュニケーションのなかでの英語の位置づけはすばらしい考えだと思います。
私も、2年間アメリカに留学しましたが、私の英語(リスニング)はほぼNHKのラジオ講座で学ばせてもらったといっても過言ではありません。
学校の英語の授業ではありません。
私が、英語が好きになり、留学できたのも、私の好奇心の強さや人とコミュニケーションをとりたいという願望の強さがあったからだと思います。
日本人は、果たしておしゃべり好きでしょうか?社交的でしょうか?街中で目があって、初対面の人とどれだけの会話ができるでしょうか?
日本人が英語がうまく習得できない理由は、そこにあると私は考えます。
私の英語のイメージは、ダイナミックで社交的な言葉です。それを操るためにはそれなりの、考え方や行動イメージが必要だと私は思います。
最後に、本人がどうしたいか?になってくるかと思います。そのためにも、必要な情報をあたえる時間は必要ですし、それがコミュニケーションの授業になりかもしれませんね。
話し方、聞き方教室なんてものあったらいいなって、つくづく思います。
ちなみに、留学中(短大)スピーチという授業がありましたが、非常にためになりました。
乱文にて失礼します。昔を思い出しながらキーボードをたたいてしまいました。(^-^)
ようこそおいでくださいました。コメントありがとうございます。
英語圏で生活された方にご賛同いただき、とてもうれしいです。相手とより深いコミュニケーションをとること、そのためだけに英語を学ぶ意味があると私も思っています。
話し方・聞き方教室も面白いですね。最近読んだ雑誌に同じことが書いてありました。議論を活性化するために、日本人は特に「話し方」を学ぶ必要がある…。
英語云々は、その「次」の話ですね。