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やっぴBLOG

「言葉の生活感」が失われていくこと。

2009-06-07 | ■つながり・コミュニケーション
今朝の朝日新聞、池澤夏樹氏のエッセイ「終わりと始まり」は、南アメリカの南端に住むヤガン族の最後の一人というおばあさんに会ったという話でした。

ヤガン族は、アメリカ大陸の最南端まで行ったモンゴロイドだという。つまり、私たち日本人と同じ種族が、はるか昔にアメリカ大陸を何千キロも縦断し、ちょうど地球の裏側までたどり着いた。そして今でもその子孫がそこに住んでいるということですね。500年ほど前にアメリカ大陸に初めて渡ったヨーロッパ人が、「インディアン」とか「インディオ」と呼んだこの大陸の先住民。そんな果てまで行っていたのかと、改めて驚きます。

池澤氏のエッセイの今回のタイトルは、「言葉の生活感─生きることの困難と喜び」となっています。最後の「インディオ」のおばあさんが生まれた時に最初に覚えた言葉はヤガン語だったそうですが、ふだん使う言葉はスペイン語。このままではヤガン語が廃れてしまうことから、彼女は今、孫娘にヤガン語を教えているのだとか。

で、池澤氏が言いたいのは、ヤガン語の動詞の豊富さです。複雑な動作を表す動詞が非常に多いことに、彼は驚く。

 例を挙げれば、「トーアトゥ」という他動詞は「運びやすいように鳥を首や足で束ねて縛る」という意味であるという。ただ「束ねる」のではない。猟の一場面に結びついている。おいしい鴨や鵜(う)がたくさん獲れた喜びが伝わるような言葉だ。


池澤氏は、こうしたヤガン語の動詞の豊富さに、アイヌ語との共通点を見いだしています。例えば、「肉を食べる」という動作を表す言葉として、アイヌ語の「エヘナリシパ」という動詞を例に挙げる。これは「片方は歯で嚙み、片方は手に持ってむしり食いする」といったような意味だそうです。こんなふうに、自然と近いところで生活していたヤガン族やアイヌの人々は、「食べる」動作一つとっても、より具体的で多様な言葉を持っていたということがわかります。

そして、日本語をふりかえる。「加工」という場面を例に引き、かつて使われていた動詞がどんどん使われなくなっているという。

 家の中でまだしも加工が多いのは台所だとしても、今そこで「煮る」や「焼く」や「蒸す」や「揚げる」以上に用いられる動詞は「チンする」だ。

なるほど。言われてみればそうだよなあと思う。目的によって、それぞれいろいろな調理方法のを表す言葉があるのに、今ではなんでもかんでも「チンする」で済んでしまうことが確かに多いかも。そもそも、池澤氏のいう通り、家の中で「加工する」という行為そのものが少なくなっているのかもしれませんね。壊れて修理するということがどんどん少なくなってきていることも事実でしょう。それは、「すべてがブラックボックス化」していて、素人にはうかつに修理できないモノが増えていることと無関係ではないでしょう。壊れたら、また新しい物を買えばいい。

池澤氏は、そうした人間の営みの変化を、「自然」と結びつける。

 万事がバーチュアルになって、自然という揺るがぬ枠組みを失って、人の欲望だけでことが決まる。ヤガン語やアイヌ語にあった生きることの困難さと喜びは現代の日本語にはない。

誰だって、つらいこと、苦しいことより、楽ちんな方を選びたいですよね。人間がつくり出してきた「文明の発展」とは、ほとんどがそういう方向で動いてきたのだと思います。より負担をかけずに、より合理的に、より楽に…。そういう思いに突き動かされて、人間は、より便利な「文化」を築き、より高度な「文明」を作り上げてきた。もちろん今も、そして未来も。その結果、まずは「言葉の生活感」がどんどん薄れていったという池澤氏の考えに、深く共感を覚えました。

このことは、方言にも言えます。ある種の動作や心の動きは、方言でしか表現できない。そういう言葉が廃れてしまうことは、本当に惜しむべきことです。そういう動作や心の動き自体がなくなってしまうわけじゃないのですから。その言葉の意味をお互いに知っているからこそコミュニケーションができるわけで、どちらか一方しか知らないというのは、コミュニケーションを断ち切ってしまうことにもなりかねません。

私たちが便利さと引き換えに失ってきたものは、池澤氏の言うような「言葉」だけではないだろうと思いました。


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