国立新美術館で開催されている「シュルレアリスム展─パリ、ポンピドゥセンター所蔵作品による─」を見る機会がありました。
1924年、パリの若き詩人アンドレ・ブルトンは「シュルレアリスム宣言」なるものを発表。
「いとしい想像力よ、私がおまえのなかでなによりも愛しているのは、おまえが容赦しないということなのだ」
と言い放つ。人間の「想像力」や「無意識」の世界を表現しようとするのがシュルレアリスム。シュルレアリスムが「わかりにくい」と言われるのは無理もありません。作者の主観のみが表現されているわけですから、その世界は本人以外に「わかり」ようもない。
シュルレアリスムの原点は、ダダイスムにあります。ダダイスム(ダダ)は、第一次世界大戦に嫌気がさしたヨーロッパの芸術家が中立国スイスに集まって始まった芸術運動です。第一次大戦は、史上初めて、大量破壊兵器が登場し、市民の生活の場が戦場となった戦争。彼らは、戦争の残虐行為への反発心から、既成の芸術に背を向けた表現活動を始めます。それまでの「美」意識の徹底的な否定。たとえば、キャンバスに何も描かずに「作品」だという。キャンバスに何か描くことが作品、という根本的概念さえ彼らは否定し、破壊する。のちにシュルレアリスムで使用される「自動記述」という手法もダダに起源があります。新聞を適当に切り取って並べて「詩」といってみたり、自分の描いたデッサンを床に破り捨ててそれを作品と言ってみたり、「偶然性」を重視する手法です。偶然には、自分の中の潜在意識が生み出すものがあるということか。「ダダ」という言葉自体、辞書をナイフで突き刺したところにたまたまあった言葉だと言います。このへんは、「無意識」を重視したフロイトの深層心理学の影響が大きいのでしょうね。
ブルトンも最初はそうしたダダイスムに傾倒していましたが、のちにそこから離れ、シュルレアリスムを始める。その違いは私にはよく分かりませんが、ダダが一切を否定したのに対し、シュルレアリスムは「新しい美学」を創造しようとしたところにあるのかなあと思っています。手法なんかはダダのものを受け継いでいるところが多いのですけどね。
さて、今回の展覧会は、シュルレアリスムの広範で多様なコレクションを持つパリの国立ポンピドゥセンターの収蔵作品が中心となっています。そういえば、展覧会のサイトで案内役を務めているのが、リサ&ガスパールの二人。というか二匹。リサがポンピドゥセンターに住んでいるなんて、初めて知りました。
それはともかく、シュルレアリスムの代表選手といえば、スペインのサルバドール・ダリがまず挙げられるでしょう。ダリの作品は、「不可視のライオン、馬、眠る女」(↓)と「部分的幻覚:ピアノに出現したレーニンの六つの幻影」の2作品。ダリの絵ってすぐ分かりますね。そういう意味では分かりやすい、とも言える。
今回見ていて気がついたのは、ダリのような「写実的」な絵を描くシュルレアリストの絵は、2種類あるんだなということ。一つはダリのように、一つ一つの「部品」が何であるかが分かる作品。たとえば、ダリの作品で最も有名な「記憶の固執」は、ぐんにゃりと折れ曲がってはいるものの、それが「時計」であることは誰の目にも分かる。デフォルメはされていても、元の姿を私たちは知っている。それとは対称的に、写実的には描かれているのだけれど、イヴ・タンギーの「岩の窓のある宮殿」(ポスターにも使われています)なんかのように、「部品」そのものがいったい何なのか分からない作品もあります。ま、そういうのを「写実的」と呼んでいいのかどうかわかりませんが、それでも、現実にある「何か」をモチーフにしているのではないかと…。そもそも、シュルレアリスムは、写実を「超えた」ところにあるわけなので、ダリの絵は「いわゆる写実的」であっても、決して「写実」ではないわけですが。
ベルギーの生んだシュルレアリスト、ルネ・マグリットの作品を見ることが、今回の大きな目的でした。けっこうたくさん展示されていました。展覧会のサイトの人気投票で今のところ1位を走っている「赤いモデル」(↑)とか「秘密の分身」、「陵辱」、「夏の行進」と、どの作品もやはりインパクト大! 静かに激しく主張していました。この展覧会、ダリとかマグリットとかジョアン・ミロといったビッグネームも「その他大勢」に含まれるって感じで、いろんな人の作品を楽しめるのですが、でも、やっぱりマグリットはその中でもひときわ異彩を放っていますね。
マックス・エルンストの「ユピュ皇帝」(↑)、ジョルジュ・デ・キリコの「ギョーム・アポリネールの予兆的肖像」、ヴィクトル・ブローネルの「パラディスト、あるいはパラディストの主題によるコンポジション」、同じく「礎と頂」、ヴィフレド・ラムの「自然の中の裸体」、あるいはアルベルト・ジャコメッティの彫刻作品群…。初めて耳にする作者も多かったのですが、心に焼き付けられる作品ばかりでした。あ、そういえば、ピカソの3番目くらいの女性、ドラ・マールの作品も展示されていました。彼女は「泣く女」だっただけでなく、写真家としての才能もあったのですね。
ユディット・レーグルの「化学の結婚の炎」は、赤やピンク、緑、青といった色彩あでやかな大作。シモン・アンタイの「雌・鏡Ⅱ」は、獣骨をあしらった一部立体的な作品でした。こういう流れがきっと現代美術にも受け継がれていったんだろうなと感じました。
さてさて、今回の展覧会では、映像作品も途中2ヶ所ほどで上映されていました。最初のルネ・クレールのトーキー作品「眠るパリ」。椅子も10数席しかなく、立って見ていたのですが、これが長いこと! 結局最後まで見ましたが、終わってから壁の張り紙に気づきました。37分もある映画でした。こういうのは展示の途中で見せるのではなく、ちゃんとした部屋で見せて欲しいと思いました。立ち見のために通路がふさがれて、スタッフが整理に追われるくらいですから。
もう1ヶ所では、なんと、ルイス・ブニュエルの実験映画「アンダルシアの犬」を上映していました(こちらは15分)。ブニュエル監督作品といえば、私にとってはずっと昔に見た「昇天峠」がものすごいインパクトが強いのですが、「アンダルシアの犬」もいつか見たいと思っていたのでした。そうか、これもシュールレアリスムなのですね。「一部の方には不愉快に思われるシーンが含まれています」みたいな注意書きが張り出してあったのは面白かった。
不愉快といえば、展覧会見終わって出るときに、前を歩いていたご婦人おふたりが、「癒される絵はなかったわね」と言い合っているのが耳に入ってきました。シュールな絵を見て「癒される」とは思いもしなかったので、この会話は相当面白かったのですが、でも考えてみれば、自分自身、「わけの分からない」絵や作品を見て、面白いと思ったり、これはいったい…と考え込んだりできたのは、「癒し」になっていたのかもしれません。シュルレアリスムの面白さは、人それぞれでとらえ方も反応も全然違う、というところでしょうか。
1924年、パリの若き詩人アンドレ・ブルトンは「シュルレアリスム宣言」なるものを発表。
「いとしい想像力よ、私がおまえのなかでなによりも愛しているのは、おまえが容赦しないということなのだ」
と言い放つ。人間の「想像力」や「無意識」の世界を表現しようとするのがシュルレアリスム。シュルレアリスムが「わかりにくい」と言われるのは無理もありません。作者の主観のみが表現されているわけですから、その世界は本人以外に「わかり」ようもない。
シュルレアリスムの原点は、ダダイスムにあります。ダダイスム(ダダ)は、第一次世界大戦に嫌気がさしたヨーロッパの芸術家が中立国スイスに集まって始まった芸術運動です。第一次大戦は、史上初めて、大量破壊兵器が登場し、市民の生活の場が戦場となった戦争。彼らは、戦争の残虐行為への反発心から、既成の芸術に背を向けた表現活動を始めます。それまでの「美」意識の徹底的な否定。たとえば、キャンバスに何も描かずに「作品」だという。キャンバスに何か描くことが作品、という根本的概念さえ彼らは否定し、破壊する。のちにシュルレアリスムで使用される「自動記述」という手法もダダに起源があります。新聞を適当に切り取って並べて「詩」といってみたり、自分の描いたデッサンを床に破り捨ててそれを作品と言ってみたり、「偶然性」を重視する手法です。偶然には、自分の中の潜在意識が生み出すものがあるということか。「ダダ」という言葉自体、辞書をナイフで突き刺したところにたまたまあった言葉だと言います。このへんは、「無意識」を重視したフロイトの深層心理学の影響が大きいのでしょうね。
ブルトンも最初はそうしたダダイスムに傾倒していましたが、のちにそこから離れ、シュルレアリスムを始める。その違いは私にはよく分かりませんが、ダダが一切を否定したのに対し、シュルレアリスムは「新しい美学」を創造しようとしたところにあるのかなあと思っています。手法なんかはダダのものを受け継いでいるところが多いのですけどね。
さて、今回の展覧会は、シュルレアリスムの広範で多様なコレクションを持つパリの国立ポンピドゥセンターの収蔵作品が中心となっています。そういえば、展覧会のサイトで案内役を務めているのが、リサ&ガスパールの二人。というか二匹。リサがポンピドゥセンターに住んでいるなんて、初めて知りました。
それはともかく、シュルレアリスムの代表選手といえば、スペインのサルバドール・ダリがまず挙げられるでしょう。ダリの作品は、「不可視のライオン、馬、眠る女」(↓)と「部分的幻覚:ピアノに出現したレーニンの六つの幻影」の2作品。ダリの絵ってすぐ分かりますね。そういう意味では分かりやすい、とも言える。
今回見ていて気がついたのは、ダリのような「写実的」な絵を描くシュルレアリストの絵は、2種類あるんだなということ。一つはダリのように、一つ一つの「部品」が何であるかが分かる作品。たとえば、ダリの作品で最も有名な「記憶の固執」は、ぐんにゃりと折れ曲がってはいるものの、それが「時計」であることは誰の目にも分かる。デフォルメはされていても、元の姿を私たちは知っている。それとは対称的に、写実的には描かれているのだけれど、イヴ・タンギーの「岩の窓のある宮殿」(ポスターにも使われています)なんかのように、「部品」そのものがいったい何なのか分からない作品もあります。ま、そういうのを「写実的」と呼んでいいのかどうかわかりませんが、それでも、現実にある「何か」をモチーフにしているのではないかと…。そもそも、シュルレアリスムは、写実を「超えた」ところにあるわけなので、ダリの絵は「いわゆる写実的」であっても、決して「写実」ではないわけですが。
ベルギーの生んだシュルレアリスト、ルネ・マグリットの作品を見ることが、今回の大きな目的でした。けっこうたくさん展示されていました。展覧会のサイトの人気投票で今のところ1位を走っている「赤いモデル」(↑)とか「秘密の分身」、「陵辱」、「夏の行進」と、どの作品もやはりインパクト大! 静かに激しく主張していました。この展覧会、ダリとかマグリットとかジョアン・ミロといったビッグネームも「その他大勢」に含まれるって感じで、いろんな人の作品を楽しめるのですが、でも、やっぱりマグリットはその中でもひときわ異彩を放っていますね。
マックス・エルンストの「ユピュ皇帝」(↑)、ジョルジュ・デ・キリコの「ギョーム・アポリネールの予兆的肖像」、ヴィクトル・ブローネルの「パラディスト、あるいはパラディストの主題によるコンポジション」、同じく「礎と頂」、ヴィフレド・ラムの「自然の中の裸体」、あるいはアルベルト・ジャコメッティの彫刻作品群…。初めて耳にする作者も多かったのですが、心に焼き付けられる作品ばかりでした。あ、そういえば、ピカソの3番目くらいの女性、ドラ・マールの作品も展示されていました。彼女は「泣く女」だっただけでなく、写真家としての才能もあったのですね。
ユディット・レーグルの「化学の結婚の炎」は、赤やピンク、緑、青といった色彩あでやかな大作。シモン・アンタイの「雌・鏡Ⅱ」は、獣骨をあしらった一部立体的な作品でした。こういう流れがきっと現代美術にも受け継がれていったんだろうなと感じました。
さてさて、今回の展覧会では、映像作品も途中2ヶ所ほどで上映されていました。最初のルネ・クレールのトーキー作品「眠るパリ」。椅子も10数席しかなく、立って見ていたのですが、これが長いこと! 結局最後まで見ましたが、終わってから壁の張り紙に気づきました。37分もある映画でした。こういうのは展示の途中で見せるのではなく、ちゃんとした部屋で見せて欲しいと思いました。立ち見のために通路がふさがれて、スタッフが整理に追われるくらいですから。
もう1ヶ所では、なんと、ルイス・ブニュエルの実験映画「アンダルシアの犬」を上映していました(こちらは15分)。ブニュエル監督作品といえば、私にとってはずっと昔に見た「昇天峠」がものすごいインパクトが強いのですが、「アンダルシアの犬」もいつか見たいと思っていたのでした。そうか、これもシュールレアリスムなのですね。「一部の方には不愉快に思われるシーンが含まれています」みたいな注意書きが張り出してあったのは面白かった。
不愉快といえば、展覧会見終わって出るときに、前を歩いていたご婦人おふたりが、「癒される絵はなかったわね」と言い合っているのが耳に入ってきました。シュールな絵を見て「癒される」とは思いもしなかったので、この会話は相当面白かったのですが、でも考えてみれば、自分自身、「わけの分からない」絵や作品を見て、面白いと思ったり、これはいったい…と考え込んだりできたのは、「癒し」になっていたのかもしれません。シュルレアリスムの面白さは、人それぞれでとらえ方も反応も全然違う、というところでしょうか。
会場の動線は、ダダイズムからシュルレアリスムへと導くようになっていましたが、その変化もあまりよく分からなかったのですが、結局、一つ一つの作品がしっかり自己主張しているので、観客それぞれに自分の好きな作品が違っていたのだと思います。「自由でのびのびしている」会場の雰囲気は、きっとそういうところから生まれていたのでしょうね。
ありがとうございます。