Victor Hugo LES MISERABLES 1862
ヴィクトル・ユゴーは、1802年に生まれ、1885年に83歳の生涯を閉じています。『レ・ミゼラブル』は彼が60歳の時の作品ということになります。
『レ・ミゼラブル』を語る前に、まずユゴーの生涯を大まかにたどっておくことにします。それは、フランスがもっとも激動した時代と重なります。
1789年に始まるフランス革命は、ルイ16世の処刑によってブルボン絶対王政を倒しただけでなく、下層市民が急進的な共和政体を打ち立てるところまで行き着きました。ところが、そんな「恐怖政治」も長くはもたず、混乱の中で人々は新たなヒーローを求めていました。そこに華々しく登場したのがナポレオンだったのです。
ナポレオンが皇帝の座に着いたとき、ユゴーはまだ2歳でした。ダヴィッドの大作「ナポレオンの戴冠式」に見られるように、1804年12月、彼はローマ教皇をパリのノートルダム大聖堂に招き、華麗な戴冠式を執り行いました。「皇帝」というのは、通常、教皇から冠をかぶせてもらうものですが、ナポレオンは教皇を呼びつけておきながら、まず自分で自分の頭に帝冠を頭上に戴き、そのあとで妻ジョゼフィーヌにも冠をかぶせました。ダヴィッドが描いているのは、まさにその瞬間なのですが、さすがに教皇ピウス7世は心なしか苦み走った表情を浮かべているようでもあります。
ユゴーの父はそんな権力の絶頂期におけるナポレオン軍の将校でした。そんなわけで、ユゴー自身もまた熱烈なナポレオン崇拝者となっていきます。
ところが、1814年にナポレオンはあっけなく帝位を奪われエルバ島に流されます。その後一時復活しますが、ワーテルローでイギリス軍に敗れてセントヘレナ島へ再び配流。ナポレオンはこの島で寂しく生涯を閉じることになります。
その後約60年余り、フランスの政体は実にめまぐるしく変化します。
1814年にブルボン朝が復活し、反動政治を展開すると、これに反発した学生や労働者が産業ブルジョワジーの支援を得て1830年7月に暴動を起こし、ブルボン朝を廃します(七月革命)。この段階では「共和政」ではなく、オルレアン家のルイ・フィリップを国王とする立憲王政が敷かれました。
このころユゴーはすでにロマン派の詩人として知られ始めていました。、七月革命の直前には戯曲『エルナニ』がコメディ・フランセーズで初演され、それまでの古典主義の枠にとらわれないスタイルが若者たちに熱狂的に受け入れられていきます。
「七月王政」は大ブルジョワジー中心の政体で、労働者や中小工業者には選挙権が与えられていませんでした。そこで彼らは再び立ち上がることになります。1848年の二月革命です。七月王政は倒され、1799年以来約50年ぶりに国王を置かない共和政が打ち立てられました。これが「第二共和政」です。
二月革命では、ユゴーと同じロマン派の詩人であるラマルティーヌが活躍し、一時、臨時政府の外相も務めていますが、ユゴー自身もまた1845年に上院議員に任命されるなど、政治への関心を深めていました。ナポレオンの甥と称する人物が登場してきたときは、最初は好意をもってこれを迎えましたが、結局、そのルイ・ナポレオンはユゴーの信頼を得続けることはできなかったのです。ルイは、伯父の栄光を背景に反ブルジョワの労働者票を得て1851年にはクーデタを起こしてついに皇帝の座につきます(「第二帝政」)。ところがユゴーはこれに反対したため国外追放にあい、以後19年間を英仏海峡のジャージー、ガンジー両島で過ごします。『レ・ミゼラブル』の執筆は、すでに1845年から取りかかっていたのですが、それが完結したのは、島の雄大な自然に包まれる生活の中においてだったのです。
1870年、ナポレオン3世が帝位を追われ第二帝政が終わると、ユゴーは祖国に迎えられ、1885年に死を迎えるまで静かな晩年を過ごしたということです。偉大なる作家にして詩人ヴィクトル・ユゴーの死は、国葬をもって遇されました。
このように、ユゴーが生きた時代は政治の振り子が右に左に不規則に揺れ動き、そしてそれに伴って社会の有り様も大きく変動した時代でした。ユゴーが『レ・ミゼラブル』で描きたかったのは、このめまぐるしい時代の変遷の中にあっても変わらぬ人間の良心であり、「愛」の力なのだと思います。
『レ・ミゼラブル』の物語は、1815年、ワーテルローの戦いの年に始まり、1833年のジャン・ヴァルジャンの死をもって閉じます。
この壮大な物語を少しずつ追いながら、「覚え書き」として記憶に留めておきたいと考えています。
ヴィクトル・ユゴーは、1802年に生まれ、1885年に83歳の生涯を閉じています。『レ・ミゼラブル』は彼が60歳の時の作品ということになります。
『レ・ミゼラブル』を語る前に、まずユゴーの生涯を大まかにたどっておくことにします。それは、フランスがもっとも激動した時代と重なります。
1789年に始まるフランス革命は、ルイ16世の処刑によってブルボン絶対王政を倒しただけでなく、下層市民が急進的な共和政体を打ち立てるところまで行き着きました。ところが、そんな「恐怖政治」も長くはもたず、混乱の中で人々は新たなヒーローを求めていました。そこに華々しく登場したのがナポレオンだったのです。
ナポレオンが皇帝の座に着いたとき、ユゴーはまだ2歳でした。ダヴィッドの大作「ナポレオンの戴冠式」に見られるように、1804年12月、彼はローマ教皇をパリのノートルダム大聖堂に招き、華麗な戴冠式を執り行いました。「皇帝」というのは、通常、教皇から冠をかぶせてもらうものですが、ナポレオンは教皇を呼びつけておきながら、まず自分で自分の頭に帝冠を頭上に戴き、そのあとで妻ジョゼフィーヌにも冠をかぶせました。ダヴィッドが描いているのは、まさにその瞬間なのですが、さすがに教皇ピウス7世は心なしか苦み走った表情を浮かべているようでもあります。
ユゴーの父はそんな権力の絶頂期におけるナポレオン軍の将校でした。そんなわけで、ユゴー自身もまた熱烈なナポレオン崇拝者となっていきます。
ところが、1814年にナポレオンはあっけなく帝位を奪われエルバ島に流されます。その後一時復活しますが、ワーテルローでイギリス軍に敗れてセントヘレナ島へ再び配流。ナポレオンはこの島で寂しく生涯を閉じることになります。
その後約60年余り、フランスの政体は実にめまぐるしく変化します。
1814年にブルボン朝が復活し、反動政治を展開すると、これに反発した学生や労働者が産業ブルジョワジーの支援を得て1830年7月に暴動を起こし、ブルボン朝を廃します(七月革命)。この段階では「共和政」ではなく、オルレアン家のルイ・フィリップを国王とする立憲王政が敷かれました。
このころユゴーはすでにロマン派の詩人として知られ始めていました。、七月革命の直前には戯曲『エルナニ』がコメディ・フランセーズで初演され、それまでの古典主義の枠にとらわれないスタイルが若者たちに熱狂的に受け入れられていきます。
「七月王政」は大ブルジョワジー中心の政体で、労働者や中小工業者には選挙権が与えられていませんでした。そこで彼らは再び立ち上がることになります。1848年の二月革命です。七月王政は倒され、1799年以来約50年ぶりに国王を置かない共和政が打ち立てられました。これが「第二共和政」です。
二月革命では、ユゴーと同じロマン派の詩人であるラマルティーヌが活躍し、一時、臨時政府の外相も務めていますが、ユゴー自身もまた1845年に上院議員に任命されるなど、政治への関心を深めていました。ナポレオンの甥と称する人物が登場してきたときは、最初は好意をもってこれを迎えましたが、結局、そのルイ・ナポレオンはユゴーの信頼を得続けることはできなかったのです。ルイは、伯父の栄光を背景に反ブルジョワの労働者票を得て1851年にはクーデタを起こしてついに皇帝の座につきます(「第二帝政」)。ところがユゴーはこれに反対したため国外追放にあい、以後19年間を英仏海峡のジャージー、ガンジー両島で過ごします。『レ・ミゼラブル』の執筆は、すでに1845年から取りかかっていたのですが、それが完結したのは、島の雄大な自然に包まれる生活の中においてだったのです。
1870年、ナポレオン3世が帝位を追われ第二帝政が終わると、ユゴーは祖国に迎えられ、1885年に死を迎えるまで静かな晩年を過ごしたということです。偉大なる作家にして詩人ヴィクトル・ユゴーの死は、国葬をもって遇されました。
このように、ユゴーが生きた時代は政治の振り子が右に左に不規則に揺れ動き、そしてそれに伴って社会の有り様も大きく変動した時代でした。ユゴーが『レ・ミゼラブル』で描きたかったのは、このめまぐるしい時代の変遷の中にあっても変わらぬ人間の良心であり、「愛」の力なのだと思います。
『レ・ミゼラブル』の物語は、1815年、ワーテルローの戦いの年に始まり、1833年のジャン・ヴァルジャンの死をもって閉じます。
この壮大な物語を少しずつ追いながら、「覚え書き」として記憶に留めておきたいと考えています。
レ・ミゼラブルの覚え書き、お願いします。私自身、もう一度読みたいと思っているのですが、なかなかです。yappiさんに覚え書きして頂ければ、助かります。
どこまでできるかわかりませんが、ガンバリマス!