ピカソ・マニマニア

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もう一人の大正天皇の皇女(糸子内親王)

2010-12-04 17:43:28 | 


三笠宮は双子だった?

皇室ジャーナリストの河原敏明氏の 執念の真相探求本です。


大正天皇と貞明皇后の4男の 崇仁(たかひと 後の三笠宮)親王には 双子の妹君があった。

当時多胎は 畜生腹と言われ忌み嫌われていて、 特に男女の双子は 情死者の生まれ変わりと言われ 地方によっては夫婦にしたりしていたらしい。

ましてや皇室に於いては あってはならないことだった。

そこで密かに 崇仁親王の妹君は 里子に出され、 5才で皇室と縁の深い 奈良の円照寺に入山され 学校にも行かず 門跡となるべく教育を受けられた。

10世円照寺門跡 山本静山(じょうざん 1915~1995)がその人に当るという。


数々の逸話で 立証していくのですが その取材振りが凄い。

特にご本人静山に対するこれでもかの 追跡には もしそれが本当でも ご本人の与(あずか)り知らぬ所での出来事であり 気の毒とも思える。

ジャーナリストって 罪な職業だ。


「こいつは春から縁起がいいわい~」の科白で有名な 歌舞伎の『三人吉三巴白波』 大川端の場の 後の幕に 生き別れの男女の双子がそうとは知らず情を交わす、 畜生道に堕ちるという場へと続くのを思い出しました。


双子の兄に当る 崇仁皇子が 三笠宮となられるのは お妹御が門跡を勤められる円照寺から 三笠山が眺められるから というのが著者の推測です。



静山門跡は 著者の言うようにお気の毒だったのだろうか。

もし静山門跡が皇女であったとしても 今更こんなに執拗な取材(最後の方はむきになられているよう)で真実を明かすことにどんな意義があるのだろう。

門跡がまだ存命中のことだったし。



色々と考えさせられた

        風呼r  でした    



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2 コメント

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円照寺は尼寺 (万葉まほろば線)
2010-12-04 21:33:08
万葉まほろば線で帯解駅を降りて円照寺へ行きました
三島由紀夫の「豊饒の海」は"月修寺"という尼寺に設定ですが

朝倉聡子(=皇女)のモデルは誰かというクェスチョンもあるけど

そういえば帯解寺は安産のお寺。美智子妃や雅子妃の名前が出てますね

芸能人ではダメなのかな
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三島由紀夫 (風呼)
2010-12-05 01:19:59
コメント有難う御座います。

円照寺においでになったのですね。
拝観は出来ないそうですが 今度奈良へ行く事があったら 私も行って見たいと思います。

三島由紀夫は割腹自殺した年の7月に円照寺を訪れているそうです。小説の主人公達のように車を使わず汗まみれで歩いたそうです。

そうして「豊饒の海」を脱稿した日に市ヶ谷に向かいました。

もう40年も前の事なのですね。
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