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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

大貫妙子/シニフィエ

2007年10月16日 23時14分59秒 | JAPANESE POP
 「クリシェ」に続く84年の作品。前作で頂点を極めたといっていい陰影に富んだ欧州路線から一転して「明るい」作品に仕上がってます。そのせいかこのアルバム、数ある彼女の作品でも最も売れた作品になりましたし、それまでの多少マニア受けする存在だったのが、一気に一般への認知度を上げた作品ともいえます。シングルカットされた「夏に恋する女たち」がそこそこヒットして、TVや街角でかの曲がちらほら流れているを聴いて、「大貫妙子もメジャーになったのかぁ」と思ったりしたものですが、そういえば、この作品あたりからですかね、「ター坊シンパ」というか「大貫十字軍」みたいな一群の女性ファンが誕生したのは....。

 アルバムは前述の「夏に恋する女たち」からスタート、クラシカルなピアノにAOR風なサックスが絡み、透き通るような大貫妙子のヴォーカルが流れ込んで来るイントロは彼女の作品でももっとも印象的、美しい瞬間だと思います。実際このアルバムのイメージって、このイントロで決まったみたいなところありますね。ちなみに、本編はテクノっぽい仕上がりですが、ストリングス、ホーン、チェンバロ風なシンセなどを全編に心地よく配置して、彼女の声に絶妙の彩りを添えています。さすがにデビュウ時から彼女のパートナーとして付き合ってきただけあって坂本龍一のアレンジもさえ渡ってます。
 続く主要な楽曲はほぼ坂本の作る「東京発、テクノ経由、ヨーロッパ行」みたいなサウンドですが、当時、坂本は徐々に過激なサウンドを指向するようになっていたせいか、タイトル曲などでは、かなりエッジの切り立ったリズムが顔を出したりしますが、大貫というキャラとはこのあたりがぎりぎりのバランスだったような気がしないでもないです。また、「テディ・ベア」は同じ頃プロデュースした飯島真理と共通するような「音楽(YMO)」路線のポップな仕上がり。

 あと、このアルバムにもう一色、ヴァリエーションを与えているのは清水信之がアレンジを担当した「ルクレツィア」「SIESTA」「エル・トゥルマニェ」といった曲での開放感でしょうか。前作はフランス的なイメージだったとするとこれらの曲は、もろにイタリア風していて、どれも澄み切った青空、輝く太陽....みたいな開放的なイメージを全開しているの印象的です。
 という訳で、彼女のひんやりとして、美しいがちょっと超然とした声を、一般に認知させてもらうには、このアルバムのポップさ、開放感が、結果的に絶妙なプレゼンテーションを果たしたといったところではないかと思います。
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レーガー モーツァルト主題による変奏曲 他/デッカー&ニュージーランドSO

2007年10月15日 23時39分22秒 | クラシック(一般)
 多分、初めて聴くアルバム。ただし、新しく購入したものではなく数年前に秋葉の石丸かなにかで購入し、その後放置というお決まりの経過をたどったものだと思う。それにしても、こうやってみるとけっこうレーガーのアルバム買っているものである。これでレーガーのアルバムをレビュウするのも4枚目だし、これ以外にも購入後放置してあったアルバムも1,2枚はあるはずだから、前にも書いたとおり、「忘れられかけた後期ロマン派の最終ステージの巨匠」みたいなイメージで興味だけはあったのだろう。さて、このアルバムだが、ふたつの長大な管弦楽による変奏曲が収録されている。ひとつはタイトルに書いたモーツァルト主題によるもので、もうひとつは前回コリン・デイヴィスとバイエルン放送響の演奏でレビュウしたヒラー主題によるものだから、当然今回の興味は前者がどんな曲かということになる。

 「モーツァルト主題による変奏曲」はタイトル通り、モーツァルトの作品、具体的にはイ長調のピアノソナタ第11番「トルコ行進曲付き」の第一楽章の第1主題を素材とし、八つの変奏と大規模なフーガを掉尾に配置した構成になっている。素材となったモーツァルトのピアノ・ソナタは私自身は何度か聴いているはずだが、あまり印象の残っていない。ともあれ、まるで子守歌のようなしっとりした安寧な雰囲気を持ったものである。例によってこのテーマを様々な形で変容させていく訳だけれど、テーマの性質上そうなったのかもれないが、前回聴いたヒラーのものに比べると全般的に、緩徐楽章的ななだらか起伏で終始している感じで、時にクリスマスっぽいムードになったり、フンパーディンクの楽劇「ヘンゼルとグレーテル」みたいな幼年期ファンタジーと共通するような雰囲気をかもしだしたりもする。ヒラーのようにダイナミックなアレグロでがんがん進行するようなところはほとんどない。

 オーラスのフーガも、しずしずと、そしてゆったりと始まり、次第にスケール感豊かに盛り上がるものの、荒れ狂うようなところはほとんどなく、まるでビクトリア調の舞踏会みたいなエレガントな雰囲気で進んでいくのが、この曲の性格を如実に物語っているといえるだろう。つまり全曲を通じて、性格が一色で統一されている訳で、その意味では非常に聴きやすい作品だと思う。それにしてもレーガーって晦渋な作風というから、どんなにシリアスで、重厚長大な音楽かと思ったら、むしろコルンゴールド、それもサントラあたりと共通する分かりやすさ感じさせる音楽だということ分かる。この曲など、その最右翼といえようか。 
 
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PAUL MCCARTNEY / Driving Rain

2007年10月14日 21時58分19秒 | Beatles
 「ラン・デヴィル・ラン」に続く2001年の作品。先日も書いたように「ラン・デヴィル・ラン」は一種のカバー集だったので、これは「フレンミング・パイ」に続くオリジナル・アルバムといってもいいかもしれない。ただし、今回は「マッカートニー」スタイルによるひとり多重スタイルでなく、バンド編成によっている。多分、「ラン・デヴィル・ラン」で掴んだバンド編成で録音することのアクティティーみたいなものをそのまま持ち込んだんだのだろうと思うが、本作では「いちいち指図しなくて済む超ペテラン勢」ではなく、若手ミュージシャンを集めて作ったのが注目される。実際、クレジットを見ても集まった面々は知らない人ばかりだ。

 全体としては基本的に「フレミング・パイ」の音楽を「ラン・デヴィル・ラン」の今風なギターバンド系のサウンドをプラスして仕上げたといったところだろうか。音楽的には大局的にはポールそのものだが、聴こえてくるサウンドは、紛れもなく90年代以降のギター・バンド系の音をしていて、時にグランジっぽかったり、アブストラクトなループが出てくるのは驚きだ。前作でのシャープでタイトなバンド・サウンド(時にハードロックまがいだったりした)も驚いたが、これもなかなかのものだと思う。ポールはサウンド的な面でいうと、「フレミング・パイ」以降、一貫してアンチ・スムース、アンチ光沢系のサウンドを指向しているようで、本作では更にそのあたりを徹底した音が欲しくなって、若手ミュージシャンを集めたのだろうと思う。そのゴツゴツとした感触は非常に新鮮な響きに満ち満ちている。「今時の音をフォロウしてみました」的な媚びたところが全くないのがいい。こうしたやり過ぎ感は、なんとなく大昔の「ワイルド・ライフ」でやらかしたハードロックまがいの音を思い出させたりすもする。

 収録曲はどれも相変わらず渋い、「I Do」みたいないかにもポールらしい愛らしい曲もあるが、基本的に内向的で地味なものだと思う。「売れるためにはどういう曲で音にすればいい?」みたいな手練手管のようなものは、薬にしたくもないという感じだ。ボールといえば「地でやっもポップさがある人」みたいなイメージがあるが、案外地でやると、例えばホワイト・アルバムに収録された曲みたいに、意外と神妙でストイックな感じになるんだなぁ....と改めて感じたりもした。ともあれ、これは聴き何度も聴き返さなければいけないだろう。聴き込めば「フレミング・パイ」と同等の滋味あふれる作品になるような予感がする。
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LEE RITENOUR / Wes Bound

2007年10月13日 22時14分07秒 | JAZZ-Fusion
 リー・リトナーってなんとなく軟派なイメージがあって、ソロ作品はほとんど聴いたことないんですが、95年頃、当時在籍していたフォープレイでのプレイで、彼にのプレイに対する認識をけっこう新たにしていたところ、どウェス・モンゴメリー・トリビュート的な企画ということで購入した作品です。3曲ほどリトナーのオリジナルが入っていますが、あとはほぼウェス・モンゴメリーのゆかりの曲のカバーとなっています。内容的には良くも悪しくもGRPといった感じであり、ゴリゴリ感の全くない、都会的で洗練され、適度にポップでBGM的なジャズといったところであり、サウンド的にも非常にゴージャスな質感の録音もとてもリッチです。つまりスムース・ジャズですね。

 リトナーのギターはほぼ全編ウェス風なオクターブ奏法や分厚いポイシングで通していますが、これはフォープレイなど近年のプレイでほぼお馴染みになっているので、特に違和感なし。特にオリジナル曲でボブ・ジェームスやハービー・メイソンが参加している曲になると、ほとんどフォー・プレイのスピンアウトのような音になっていますし、やはりこのふたりが参加した「Wes Bound 」「Road Song 」「West Coast Blues」といった有名曲もかなりフォープレイ的なスムース・ジャズになっています。おもしろかったのはオルガン・トリオ+ビッグ・バンドというフォーマットで演奏された「4 On 6」ですかね。「ウェス・アンド・ジミー」のオマージュかもしれませんが、今時なオルガンとリトナーの絡みも楽しく、ジャズ的感興とフォー・プレイ流のスムースさがうまく合体してなか聴き応えかありました。あと、オリジナル曲では「West Coast Blues」の意表をついてAOR風なゆったりとしたアレンジに変身させたありも楽しかったかな。

 という訳で全体としては決して悪くないものの、どこかに突き抜けたようなポイントが欲しかったですかね。アレンジにせよ、ヴァリエーションにせよ、もう少しヘソになるような部分でもあればアルバムの印象もかなり鮮明になったのかもしれませんが、よくも悪しくもスムースに流れ過ぎてしまい、リトナーのギターワークもウェスの曲もそれに埋没してしまったような感じるのは、とどのつまりリトナーの中庸さというものなのかもしれませんが。
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大貫妙子/Cliche

2007年10月12日 23時36分11秒 | JAPANESE POP
大貫妙子って、なんかイメージ的に「永遠に30代」みたいなところがあるけれど、私より5歳年長ってことは....今年でもう53歳になるんですね。このアルバムは彼女が29歳の時、つまり82年のものですが、多くの人に大貫妙子というミュージシャンのイメージを焼き付けた作品になるんじゃないでしょうか。彼女は70年代中盤にニュー・フォーク的なところから出発しましたが、フォーク的に深化する訳でも、ニュー・ミュージックやAORに染まる訳でもなく、妙に座りの悪い作品を連打していましたが、これはおそらく自分のもっているミュージシャン・エゴのようなものを本人もよく掴みきれていなかったんでしょう。ところが、本作に先立つ「ロマンティーク」「アヴァンチュール」といった作品あたりから、徐々にその音楽にヨーロッパ的なセンスを取り入れ始め、彼女独特の堅く閉ざされたような情感とひんやりとした透明な歌声とを生かす音楽スタイルを見つけるはじめる訳ですが、そのピークとなるがこの作品という訳です。

 アルバムは前半4曲が坂本龍一、後半6曲はシャン・ミュージーのアレンジですが、1曲目の「黒のノアール」はこのアルバムのテーマ曲といえる作品で、情緒面々たるメロディーを冷たいほどに澄んだ声で、まるで自分の情感ですら突き放すような歌う彼女のヴォーカルを聴いたときは、「いやぁ、こりゃ自分の一番弱いところを突いてきた音楽だな」などと意味不明なことをつぶやいたものです。2~4曲はある意味で当時のYMOの守備範囲ある、ユーロピアン・ミュージックとテクノの融合といえますが、「色彩都市」の上品さセンスは、まずは大貫と坂本の理想的コラボレーションのひとつといえると思います。5曲目からは本場のフランス・サウンドへのスウィッチ、どれもフランスの香り一杯のサウンドに彼女の声がこよなく調和していますが、個人的には7曲目「つむじかぜ」の明るいシャンソン風なところが好き。ついでに書くとこの曲以降の暗い情念に満ちたちと深刻展開はなはなかなか凄いものがあって、それを浄化するように映画ばりのロマンティックさに模様替えしたインスト版「黒のノアール」で締めくくるという構成は、渋谷陽一さん風にいうと、ゲシュタルト崩壊しそうなドラマチックさがあります。

 ちなみに彼女はこのアルバムでヨーロッパ路線を確立した訳ですが、この後84年の「カイエ」という企画っぽいアルバムでこの雰囲気を一度だけ再現しましたものの、実をいうとそれ以外、こうした路線はどんどん後退させてしまい、音楽的には少々ストイックで無色透明になり過ぎていったように思います。このアルバムで彼女のファンになったような私からすると、これはちと残念だったりするんですが、21世紀にはいってからの彼女の作品って、私聴いたことないんですが、そろそろこのあたりに回帰したり....してないか。
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PAUL MCCARTNEY / Run Devil Run

2007年10月11日 23時45分37秒 | Beatles
 「フレミング・パイ」に続く1999年の作品。先日書いたように「フレミング・パイ」は多分「アンソロジー」の製作がきっかけになったビートルズへの回顧モードが横溢した作品だったけれど、その2年後に作られた本作ではその回顧モードが更に「ビートルズ以前」に向かっていることを感じさせる作品だ。オリジナル曲が3曲ほど入っているが、残り12曲はすべて50年代のR&R作品ばかりで、一種のカバー・アルバムになっているのだ。おまけにこのレコーディングにはせ参じたメンツが、ミック・グリーン、デイブ・ギルモア、ピート・ウィングフィールド、イアン・ペイス、デイブ・マッタクスという、ポールとは世代的も音楽的にも「空気を共有していそうなメンツ」なのが、そのあたりの狙いを雄弁に物語っているといえるだろう。

 音楽的にはストイックなまでにシンプルでストレートなロックンロールである。これは集まったメンツがメンツなだけに可能だった結果なのだろうが、まさに阿吽の呼吸といいたいようなリラクゼーションと緊張感がほどよくブレンドされた演奏が展開されていて、これが実に気持ち良い。私は音楽的ルーツがビートルズそのものだったりするから、ここで演奏されている諸曲のオリジナルには全く縁がないのだけれど、おそらくビートルズの最初期のカバー作品と同様、オリジナルをよりシャープで、ラウドな方向でアレンジしているのだろう。ここでも基本スタイルにはきわめて忠実だが、時に70年代風にヘビーだったり、ソリッドなサウンドが随所に顔を出し、単なる懐古趣味に走った懐メロ大会というには辛口な音になっているのはさすがだ。ポールも声もいつになく若々しく、まるで初期のビートルズ時代のシャウトを思い出してしまうところすらあるほどだ。

 まぁ、そういうアルバムなので、従来の「甘くロマンティックなポール」を期待すると全く裏切られるだろうし、「フレミング・パイ」同様、本作もリスナーの心情を慮ったような社交性、外向性とは対極にあるポジションで製作されているせいで、基本的には内向的な方向性をもっているので、そういうところを地味に感じてしまうムキは当然あるだろう。ともあれ、その潔さが身上のアルバムだ。それにしても、あのテビッド・ギルモアがフェアポートのデイブ・マッタックスのドラムをバックに、こういうギターを聴かせるとは....。しかも、それがバンド・ミュージックとしてぴたりと額縁におさまっているのは、ポールという主役の巨大な存在感故なんだろうな。 
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ザ・ビートルズ・アンソロジー2

2007年10月10日 23時22分10秒 | Beatles
 「ザ・ビートルズ・サウンド最後の真実」を読んだところで、これまた久々にアンソロジーの第2巻を聴いてみた。このアルバム、ディスク1は1965年のコンサート・ライブ中心なのだが、ディスク2の方は「サージャント」あたりのアウトテイクスが中心で、今夜聴いたのはもちろんこのディスク2の方だ。実はこのディスク、これまであまり聴いたことがないものだったのだが、かの本を読みながら、実に楽しく聴くことができた。収録されたのはこの時期の各種デモ、初期テイク、レア・ヴァージョン、別リミックスなどなどだが、全般的にジョージ・マーティン指揮の結果なのか、あのヴァージョンとこのヴァージョンを組み合わせて1曲に仕上げみたいなことをして、デモはデモなりにきっちりと1曲に仕上げているのが、良くも悪しくも「資料」ではなく、「完成された商品」として売り出されたが故の特徴だろう。

 まぁ、コアなファンの中には、貴重なデモだからプレーンな状態で全部聴かせて欲しいと思う人もいるだろうが、私の場合、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー 」のデモなんてソースを初期の段階から延々と聞かされるより(そういう考古学的ブートも沢山市場には存在する)、このくらいはしょってくれた方が個人的にはありがたいし、別ヴァージョンにしても、一本調子なヴァージョンをいろいろ細工して、新ヴァージョンとしてメリハリつけてくれたりするのもアリだと思うクチなのて、けっこう素直に楽しめた。かの本で地獄のようにこき下ろされていた「オンリー・ア・ノーザン・ソング 」のSE抜きヴァージョンなんて、この時期としては珍しくインド風味なしのジョージの地味な浮遊感がけっこう楽しめたりしたし、「ミスター・カイト」のドリーミーなSEをぐっと全面に押し出したリミックスとか聴いていて新鮮だった。ともあれ、ビートルズの場合、マルチマスターが残っていたというのは、返す返す幸運だったと思うことしきりなディスクだ。
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自作PC起動せず

2007年10月09日 23時06分33秒 | PC+AUDIO
 もう一ヶ月以上も前のことだが、自宅のデスクトップPCが壊れた。症状は電源が入らないである。パワーボタンを押してもウンともすんともいわない、ファンすら回らない状態である。この症状からして、おそらくは電源ボックスがお亡くなりになったと思われるのだが、正直いってどこが悪いのか検証してみようという気もおこらない。このパソコン自作機なのだが、光学系ドライブが4つ、ハードディスクが3~4台、グラボ、キャプチャーカードと、機能満載といえば聞こえはいいが「なんでもかんでも乗せちゃえ」みたいなノリでどんどん拡張していたので(CPUやマザーは何度も換装した)、よくもまあ5年間も健気に動いてくれたものだと逆に感心するくらい、様々な不安定要因をかかえていたPCだったのである。

 なので、これを再生して使おうという気はあまりないのだが、そうなると自宅にはノートパソコンしかないことになり、このパソコンが担っていた各種サーバ機能が停止してしまっているので、さすがにどうにかしなければいけないと思い始めてきた、なにしろ、うかうかしていると年賀状の季節になってしまうではないか!。さすがに年賀状はノートパソコンを膝にのっけてぱちぱち打つという訳にはいかぬ。
 そんな訳で、このPCを再生しないとなると、新しいPCを用意しなくてはいけないのだが、いったい構成のパソコンを購入したらよいか、もうさっぱりわからなくなっている。CPU、グラボ、マザー、HDD、電源ボックス、そして筐体などなど、凝り出せばキリがない世界なのだが、ひとつだけ決まっていることがある。それはもう自作はしないということだ。昔はそれが楽しみだったのに、この5年の間にプラモよろしく自作機を組み立てる楽しさみたいなものが、すっかりなくなったしまったからだ。

 なのでこれから、パソコンを購入するとしたら、注文生産のような大手メーカのものか、組み合わせに融通の利くハウス・コンピュータかなにかしようと思っている。最近はパソコンもだいぶ安くなってきたイメージがあるもんで、このところあれこれ調べてたりしているんだけど、メモリは2G、ハードディスクは500GBとかそこそこの組み合わせを選んでいくと、やはり20万くらいに近くなっちゃうんだよね。これまであった各種サーバ機能だけを再現するなら、別に5万とかでも出来上がってしまうかもしれないのだけど、購入するとなると、どうして欲がでちゃうんだよな。はて、どうしよう?。
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G.エメリック/ザ・ビートルズ・サウンド最後の真実

2007年10月08日 23時12分47秒 | Books
 私はここしばらく、ポール関連の作品ばかり聴いているが、「フレミング・パイ」を聴ききながらアルバムのクレジットなどを眺めていたら、ジェフ・エメリックの名前を見つけたことで、ふと思い出して「積ん読中」だったこの本をとりだしてきた。確か1月に購入してきたもので、最初は興味津々に読み始めたんだけど、どうも前半部分はどうも話題がビートルズから離れがだったり、寄り道みたいな部分も多くて、いつのまにか放置してしまったいたのだ(あの時期は他に読みたい本も沢山あったし、ビートルズ関連の音楽そのものに、ちょいと興味が向かなかったこともあったかもしれないが....)。

 そんな訳で、この一週間くらいかけてようやくこの大冊を読み終えた。やはりおもしろくなるのは、冒頭の部分で扱われる「リヴォルバー」の章くらいからだろう。この時期のビートルズは来る日も来る日続く単調なツアーの疲弊もあってか、スタジオ・ワークにのめり込むようになっていくのは有名な話だが、それを当時のエンジニアの生き証言として語られるのだからおもしろい。おまけのそのエンジニアはどちらかといえば、現在のエンジニアと共通するようなブロデューサーの領域に侵犯するようなタイプで(でもないか?)、しかもアイデアマンだったせいで、当時にしてみれば実験的としかいいようがないビートルズの発想を次々に具体化していくプロセスを生々しく語られていくのは確かにおもしろい。

 また、ポール寄りではあるものの、ビートルズの面々のキャラクターを割と冷静に観察し、「サージャント・ペパー」以降、メンバーのキャラの顕在化、頂点を極めた人間の傲慢な振る舞い、ドラッグ漬けのスタジオの乱痴気騒ぎなどなどを通じて、バンドそのものが崩壊していくプロセスを生々しく描いている点も興味深い。このあたりはマーク・ウィソーンによる「ビートルズ・レコーディング・セッション」の記述でも一部伺いしれたものだけれど、ようやくその全容....ってほどではないにして、現場の雰囲気が解明されたというところかもしれない。とにかく4人の奇行集団に翻弄された、当時のアビイロード・スタジオの混乱ぶりがよくわかる。特にジョンはひどく、68年あたりを境にジョンの奇行ぶりがエスカレートしていくのをみていると、ドラッグの災禍というのは確実に音楽面でもジョンを蝕んでいたのだなぁ....とも思ったりもした。
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蘇慧倫(ターシー・スー)/満足

2007年10月07日 23時43分57秒 | 台湾のあれこれ
 蘇慧倫の1995年の作品です。個人的には彼女の最高傑作だと思っている「就要愛了[口馬]」に続く作品となりますが、フュージョン的なサウンドにのってすこし大人びた音楽を展開した「就要愛了[口馬]」に対して、こちらはがらりとムードを替えてシンガー・ソングライター風というか、フォーク風なナチュラルな作品を集めているのが特徴でしょうか。歌手のとしての蘇慧倫は90年代前半は日本的なアイドル路線にほぼ塗りつぶされた音楽をやっていて、それが一皮むけたのがそだったとすると、本作はさらに歌手のとしてのレンジを広げた作品ということができると思います。

 1曲目は秋の高い空を見るようなパースペクティブを持ったバラード風な作品で、彼女のやや生真面目で誠実ななキャラがストレートに出て、その澄んだ歌声共々「少し大人になった蘇慧倫」の魅力がいかんなく発揮されています。4曲目はそれに輪をかけて素晴らしいバラードで、切ない感情の高まりを切々と歌う様は、調度アイドル路線とシンガーの中間くらいの微妙なバランスを感じさせて、その脱皮しかけなところが初々しくてこれまたグー。ラスト・チューンはほぼ1曲目に呼応するようなアコスティックなサウンドにのって歌われますが、これまた蘇慧倫のナチュラルな魅力炸裂といったところでしょうか。ともあれこの3曲は多分彼女の数ある作品の中でも、蘇慧倫が一番蘇慧倫らしかった作品として印象深いです。

 ちなみに彼女はこの作品の後、またまた路線を変更し、髪を切っておかっぱ頭でちょっと素っ頓狂なお姉さん的なキャラに変貌する訳ですが、それを思うと「就要愛了[口馬]」と本作は、彼女が大人になるプロセスで一瞬見せた「まじめで誠実そうなお嬢さん」的なキャラをストレートに記録した数少ない作品という気もします。実際、この時期の彼女はヴィデオなどみても絵に描いたように「きれいないい女」しているんですよね。その後の3枚目的なキャラも好きだけど、個人的にはもう少しこの路線を続けて、夢を見させてもらいたかった....という想いもあったせいか(笑)、この2作は余計記憶に残っているのかもしれません。
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PAUL MCCARTNEY / Flaming Pie

2007年10月06日 23時19分02秒 | Beatles
 この2週間、ポールの作品ばかり聴いているのだが、実はここでレビュウした「フラワーズ・イン・ザ・ダート」や「オフ・ザ・グラウンド」より、このアルバムの方が聴く頻度は高い。このアルバムは「オフ・ザ・グラウンド」に続く1997年の作品で、私はほぼリアルタイムに近い時期に購入したものの、一聴して前作、前々作の華やかさ、勢いの良さとあまり対照的な仕上がりに「ずいぶん枯れてしまったな」と思ってしまい、その後ほとんど聴くことがなかったのだ。ところが前述の2枚を新たに購入をしたのをきっかけに、こちらを改めて聴き返してみたところ、「あれ、けっこういいじゃん」となって、繰り返し聴いいくうちに、「うわぁ、これ傑作かも」と思うようになってきたという訳だ。まったく昔は一枚アルバムを購入したら、それこそ骨の髄までしゃぶりつくして、嫌いな音まで好きななったものだけれど、最近はなにしろアルバムを購入し過ぎているのか、一聴してダメだともうそれっきり....という弊害がもろに出たという感じだ。

 さて、このアルバムとにかく地味である。リンゴ・スター、スティーブ・ミラー、ジェフ・リン、ジョージ・マーティンといった錚々たるメンツも顔を出さない訳でもないが、基本的にはポールのワン・マン・レコーディングによる、かつての「マッカートニー」的に制作されたせいか、サウンドはスカスカでひどくこじんまりとまとまってしまっているし、バンド的なノリやグルーブ感もほとんどない。冒頭を飾る「ザ・ソング・ウィー・アー・シンギング」の午睡のようなムード、アイリッシュ・トラッドのような4曲目「サムデイズ」、6曲目「カリコ・スカイズ」や11曲目「リトル・ウィロー」といったアコスティック・ナンバーあたりはひどく内省的な趣が強く、ある種の虚脱感のようなものすら感じさせるのだ(このあたりも「マッカートニー」と共通する雰囲気といえなくもない)。2曲の「ザ・ワールド・トゥナイト」や3曲目の「イフ・ユー・ウォナ」といったロック的作品も同様である。ポールらしい外向的な明るさを持った曲といえば、6曲目の「ヤング・ボーイ」と13曲目の「ビューティフル・ナイト」くらいのものだろう。だが、その地味さが繰り返し聴いていくうちに「効いてくる」のである。

 80年代後半からのポールの創作活動は完全復活、ワールドツアーはどこも超満員とエンターテイナーとしてポールは絶好調だった訳だけれど、いささかそれに疲れてしまっていたところもあるのではないか。またこのアルバムの直前にビートルズの「アンソロジー」の制作が、ポールの心境をどこかどこか内向きで、回顧モードに向かわせたとも考えさせる....ともかく、そんな理由でこのアルバムは前作からうってかわって、内向的で地味な仕上がりになったのだと思う。で、これで音楽も気の抜けたようなものになっては意味がないのだが(かつて私はそう思っていた)、そのあたりはさすがはポールというべきだろう、枯淡の境地といいたいような渋さ滋味あふれる音楽になっているのだ。
 また、おそらくアンソロジーの影響なのだろう、全体がビートルズ的なアンサンブルに先祖返りして、、その音楽はさながら「55歳になったポールによるひとりビートルズ」みたいな趣もあるのは、決して手練手管などではなく、それがその時のポールが本当の欲するものだったのだろう。
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ナット・キング・コール/ピアノ・クラシックス

2007年10月05日 23時29分57秒 | JAZZ-Piano Trio
 こちらは先日とりあげた「ヴォーカル・クラシックス」のディスクの後半にはいっているもの。原題は「インストゥルメンタル・クラシックス」だが、何故か邦題は「ピアノ・クラシックス」となっている、きっと発売元ではそっちの方が分かりやすいと思ったんだろうな....ちょっとばかり余計なお世話だと思ってしまう(笑)。それにしてもこれが録音された頃、つまり40年代中盤~後半の頃のコールは、ヴォーカルとピアノどっちがメインだったのだろう。元々はコールは30年代にジャズピアニストとしてデビューして、ピアノ、ギター、ベースからなるピアノ・トリオというフォーマットをつくりあげた人という知識は一応あるのだけれど、40年代なかばともなればヴォーカリストとしてもかなり売れていたハズで、一体どくらいの時期にヴォーカルとピアノの比重を反転させたかよく分からないのである。

 ともあれ、ここに収録された12曲はピアノ・トリオ時代をコールを伝える作品ばかりである。私はピアノ・トリオというとどうしてもドラムが欲しいと思ってしまう人なので、ここに収録された作品のうち、例えば14曲目の「恋とは何でしょう」とか16曲目「ジス・ウェイ・アウト」、20曲目の名曲「スイート・ジョージア・ブラウン」などのどちらかというとアップテンポでスウィンギーな作品は、あまりに古色蒼然とした古くささを感じてしまうのだが(コンガの入る「バップ・キック」とかになると、多少は緩和されるのだから)、それでも聴きこんでみると、当時としてはここで聴かれる音楽の名技性とそこから来る爽快感のようなものは、やはり凄いものだったのだろうなとは思う。また、音楽的にはもうこれの後にすぐオスカー・ピターソンのテクニカルさにつながっていくのもよくわかる(トリルのようなフレージングとか、左手を時にフィルインのようにガツンといれるところなどまさにそう)。

 ちなみに比較的なスローなバラード系の作品群は素直に楽しめる。当時はとても現代的な都会的センスに満ち満ちた演奏だったんだろうけど、そのブルージーなセンスにせよ、アーシーな暗さにしたところで、今聴くとしっとりとしたとても上品なセンスにくるまれている感じがするのは、まさに時代の流れなんだろう。13曲目の「ザ・マン・アイ・ラヴ」とか17曲目「ボディ・アンド・ソウル」などぼんやり流していると、その古くささがかえって気持ちよくなってくるから不思議だ。
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ポール・マッカートニー/オフ・ザ・グラウンド

2007年10月04日 23時50分00秒 | Beatles
 先日の「フラワーズ・イン・ザ・ダート」と一緒に購入してきたスペシャル・パッケージ版、ただしこちらは2曲入ったCDシングルが一枚おまけとついているだけで、ボリューム感という点ではそんなにスペシャルでもない。さて、このアルバムだが「フラワーズ・イン・ザ・ダート」に続く作品で、1993年の発表となる。約4年のインターバルをおいているが、この間にビートルズ・ナンバーを大々的に解禁したワールドツアーをやっているから(ライブ盤も2種類、リチャード・レスターを起用したライブ映画もつくっている)から、「フラワーズ・イン・ザ・ダート」で完全復調したテンションはずっと保っていたのだろう。このアルバムもその充実ぶりがストレートに伝わる実に良質なアルバムになっていると思う。

 このアルバムの特徴はなんといっても、音が「バンド・サウンド」していることだろう。前作のような贅をこらした豪華絢爛なプロダクツという感じではなく、ツアーで帯同したメンツをほぼそのままスタジオ連れ込んで、一気に仕上げたという感じのノリの良さ、ライブ感があり、そこから巧まずしてアルバムとしての統一感、タイトさのようなものが滲みでてきているのがいい。1曲目のタイトル・チューンと2曲目の「ルッキング・フォー・チェンジズ」で11曲目「ゲット・アウト・オブ・マイ・ウェイ」みせる、ヘビーなサウンドとポールらしいソフトさの違和感ないブレンドぶりがそれを物語っている。また、8曲目「ゴールデン・アース・ガール」なナイーブでメロディックなセンス、12曲目の「カモン・ピープル」の「バックシート・オブ・マイカー」を思わせるスケール感とロマンティックさはまさに「ボールのアルバムを聴いている」と感じさせてくれる仕上がりだ。

 また3曲目の「明日への誓い」のやや奇妙だがやたらノリの良くポップなサウンド、5曲目の「バイカー・ライク・アン・アイコン」では明るさと憂いがまじりあった曲をこれまた奇妙なボサノバ・サウンドとして仕上げているが、このあたりもおもしろさもまた楽しいものだ。更にいえば、コステロのコラポの残り分ともいえる4曲目「ミストレス・アンド・メイド」と9曲目「ザ・ラヴァーズ・ザット・ネヴァー・ワー」もアルバムにほどよいテンションを与えている。特に後者はホワイト・アルバムに入っていてもおかしくないような傑作ではないか。という訳で、前作ほどの華はないし、全体にややルーズなところがないでもないが、まずは佳作といってもいい仕上がりだと思う。前作がポールの傑作だとすれば、こちらは90年代の甦ったウィングスのスマッシュ・ヒットといったところだろうか。

 
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どうして今度は大騒ぎしないんですか?

2007年10月03日 23時59分58秒 | others
 ごくごく地味に報道されているが、民主党の渡部恒三の政治団体「新時代の会」が約十二年間に渡って、渡部氏の甥の自宅マンションを「主たる事務所」として届け出、その間、事務所費などの経常経費計約一億七千八百万円を支出していたらしい。本人は「10年前は当たり前だった。10年前はなんでもないと思っていたことが、今は厳しく批判されなきゃいけない」とかいっているらしい。よくわかんないけど、これって自民党と自殺した松岡某、役職を辞任においこまれた赤城などと、ほぼ同様なケースだよね。

 私は竹下派七奉行といわれてるころからこの人のキャラはきらいではないし、こういう不明朗というか不正な会計処理などについて、原理主義的に清廉潔癖さを追求することより、「そりゃ、昔はあったんでしょうな」くらいで軽く流してもいいと思うくちなので、今回の報道ぶりそれ自体、むしろこのくらいがまっとうなバランスだとは思うのだが、それにしたって昨日の今日である。ほんの数ヶ月前まで選挙前を目前にした時期での、バカ騒ぎぶりに比べると、今度のマスコミの異様な寡黙さは(今日の午後報道されたばかりねネタだから、この後どう展開するかはわからないけれど、おそらくこのまま地味に扱われて終わりになるんじゃないか)、「いったいなんなの?」と思わざるを得ない。

 相手は民主党の中では知名度も抜群、役職としても最高顧問にある地位にある大物だ。ほんの数ヶ月前までは、与党に疑惑の人には、魔女狩りの如く記者が殺到し、くだらないワイドショーはもちろん、ゴールデンタイムの報道番組でじゃかすか取り上げて、煽りに煽っていたのに比べると、その落差はえげつなさを感じほどだ。そりゃもちろん、与党と野党の違いだとかなんとか、報道側はいろいろエクスキューズは用意してあるんだろうが、それにしたって、この極端な報道の濃淡の付け方に、公正中立をうたうマスメディアの背後にある、あからさまな政治的意図を感じてしまうのは、私だけじゃあるまい。
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液晶テレビ

2007年10月02日 23時54分17秒 | PC+AUDIO
 私はオーディオにはうるさい方だが、画像に関してはあまり頓着はない。だから、自宅のAV環境はオーディオこそ、そこそこグレードで7.1ch環境を整えてあるものの、テレビの方はそこらの電気屋さんで、数万円で購入してきた安物のブラウン管型で、目下のところ、それらあまり不満もない。ただ、アナログ放送終了のアナウンスも見えてきた昨今、液晶TVが俄然勢いを増し、価格の方ももかなりの勢いで値下がり始めたせいか、私の周りでも購入する人がちらほら出てきたりして、私もなんとなく気になってきたというところだ。

 そこでたまにネットであれこれ調べてみるのだが、こと液晶TVに関しては従来の国産家電メーカに加え、PCメーカ系、ベンチャー企業が企画発売していると思われる激安系といろいろあって、どれがいいのかさっぱりわからない。例えば画質、さっきも書いたように私は画質には頓着しないので、そこそこ見れればいいと思っているから、激安系なんかでもいいかななどとも思うのだが、液晶TVに関しては動きの速い場面とかになると見づらいとか散々いわれたせいもあって、ブラウン管型から明らかに劣るようなものなら、多少高くてもそれなりのグレードの方がいいかな....などと考えたりもする。あと、配線、AVアンプをセンターにして、ケーブルTVのチューナーだの、DVDプレイヤー、あと液晶テレビとなれば、PCを接続してそこでオンライン・ゲームをやるなどというオプションも出てきたりする訳で、それら様々な仕様の端子をどうやりくりするか....などと考えると頭が痛くなる。昔はそれを考えるのが楽しかったんだけどな。

 まぁ、そんなことを考えると液晶テレビだけではなく、こうなったらAVアンプ、ついでにAV用のパソコンなども改めて全部新調してしまうおうかなどとも考えないこともない。ただ、そのあたりはそもそも家を新築したら(そういう計画がないこともない)、併せてリニューアルしようと思っていたので、いかにも半端になるし、繋ぎでそんなものを購入できる財力もないしで、いつも考えそのものがここで頓挫してしまう。実は夏頃から何度も考えいるのだが、さて、テレビだけでも購入することになるんだろうか?。
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