こちらは、ぐっと遡って1945年収録にされた往年の名演奏である。ヨゼフ・シゲティにディミトリス・ミトロプーロスという過度なロマン性を配した原典主義、新古典派主義的の巨匠たちの組合わせである。1945年といえば、原曲が作られてから10年やそこいらの時期であり、同曲はほとんど完全な現代音楽だったはずだから、さぞやキリキリと締め上げたストイックで即物的な演奏か....と、びくびくしながら聴いたところ、意外や意外、-ことヴァイオリンに関していえば-同曲のロマン派的な側面にスポットを当てたような演奏であった。これに比べれば、昨夜聴いた、シェリングの謹厳実直な演奏の方が、よほど即物的でゲンダイオンガク的な感じがしたほどだ。
もちろん、シゲティのヴァイオリンはグリミョオーのような甘美さ、流麗さはなく、どちらかといわずとも、なにやら角張っていて、ゴツゴツとした、いかめしい風情が漂う演奏なのだけれど、無骨な中にも非常な緊張感と、マジャール的といったらいいのか、とにかく白か黒か的な熱気があって、それがこの作品に潜むドラマを実にホットに伝えているように思うのだ。第2楽章冒頭のソロなど、超絶テクニックというような運動性とはひと味違う、一種の独特の凄みが感じられる。対するミトロプーロスの指揮は、非常に客観的でクールな印象だ。一昨日聴いたマルケヴィチなんかに共通する、この曲のモダンなオーケストレーションを白日の下に晒したような、非常にドライな感触を持った演奏になっている。この曲にロマン派的なドラマを見いだしたのがシゲティだとすれば、ミトロプーロスのはある意味、この曲の現代性を見据えた演奏ということもできると思う。ちなみにオーケストラはトスカニーニにハウス・オーケストラだったNBC交響楽団で、スーパーテクニック軍団だけあって、まったく危なげない演奏だ。ついでに音質があまりよくないので、よくわからないが、かなりブリリアントなサウンドであったことを伺わせるに十分な演奏でもある。
ちなみに本演奏の収録は前述のとおり1945年だから、当然SP時代の録音となるが、その割にはかなり良好な音質だ。ディスクから起こした音源だから、ダイミックレンジは時代相応、スクラッチ・ノイズも盛大に聴こえてくるが、リマスタリングに際して、ノイズリダクションや音圧調整が成功したのか、ヴァイオリンの表情といい、オケの量感、ディテールがけっこうよく聴きとれる(デッカを思わせるふっくらとした音質ともいえる)。新ウィーン楽派のような音楽は、ディテールが聴きとれなかったり、マスの響きが貧弱だったりすると、とたんにつまらない音楽になったりするけれど、このクウォリティであれば、とにもかくにも最後まで聴きとおせる音質になっている。
もちろん、シゲティのヴァイオリンはグリミョオーのような甘美さ、流麗さはなく、どちらかといわずとも、なにやら角張っていて、ゴツゴツとした、いかめしい風情が漂う演奏なのだけれど、無骨な中にも非常な緊張感と、マジャール的といったらいいのか、とにかく白か黒か的な熱気があって、それがこの作品に潜むドラマを実にホットに伝えているように思うのだ。第2楽章冒頭のソロなど、超絶テクニックというような運動性とはひと味違う、一種の独特の凄みが感じられる。対するミトロプーロスの指揮は、非常に客観的でクールな印象だ。一昨日聴いたマルケヴィチなんかに共通する、この曲のモダンなオーケストレーションを白日の下に晒したような、非常にドライな感触を持った演奏になっている。この曲にロマン派的なドラマを見いだしたのがシゲティだとすれば、ミトロプーロスのはある意味、この曲の現代性を見据えた演奏ということもできると思う。ちなみにオーケストラはトスカニーニにハウス・オーケストラだったNBC交響楽団で、スーパーテクニック軍団だけあって、まったく危なげない演奏だ。ついでに音質があまりよくないので、よくわからないが、かなりブリリアントなサウンドであったことを伺わせるに十分な演奏でもある。
ちなみに本演奏の収録は前述のとおり1945年だから、当然SP時代の録音となるが、その割にはかなり良好な音質だ。ディスクから起こした音源だから、ダイミックレンジは時代相応、スクラッチ・ノイズも盛大に聴こえてくるが、リマスタリングに際して、ノイズリダクションや音圧調整が成功したのか、ヴァイオリンの表情といい、オケの量感、ディテールがけっこうよく聴きとれる(デッカを思わせるふっくらとした音質ともいえる)。新ウィーン楽派のような音楽は、ディテールが聴きとれなかったり、マスの響きが貧弱だったりすると、とたんにつまらない音楽になったりするけれど、このクウォリティであれば、とにもかくにも最後まで聴きとおせる音質になっている。
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