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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その215 『横浜開港の歴史を訪ねて、三塔物語』 その9

2017年09月24日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
2階広間から資料室の間に、開港当時の交通の様子を表しているステンドグラスです。
中央が『鳳凰』、左は『呉越同舟』右が『箱根越え』を描かれています。
中央の鳳凰部分にも、横浜市の市章、ハマ菱がデザインされています。



その奥の窓は、円周部分にすりガラスが使われ、変化をつけることで窓の雰囲気を変えているようです。



『咸臨丸帰航図』が掛けられています。
1853年、浦賀沖に来航したペリーの黒船に肝をつぶした幕府は、勝海舟の提言を受け入れ、長崎に海軍伝習所を創設し、その練習艦としてオランダに軍艦2隻を発注しました。
1855年、先に届いた1隻(観光丸)はオランダ領インドネシアにあった中古船でしたが、後1857年8月に届いたもう1隻は、以前このブログで紹介した、オランダの風車で有名なキンデルダイクの造船所で建造された咸臨丸です。
ちなみに、咸臨丸のオランダ名は『ヤパン号(Japan)』で、日本では、江戸幕府の船として初めて太平洋を往復した蒸気船になります。

嘉永7年(1854年)、ペリーが黒船、『ポウハタン号』を旗艦として来航し、横浜村に上陸して日米和親条約を締結します。
安政5年(1858年)、この船上で、米国代表・総領事タウンゼント・ハリスと日米修好通商条約が調印されました。
万延元年(1860年)、この条約を正式批准するため、日本使節団がこのポーハタン号に乗って、太平洋を横断し、アメリカへ向かいました。
遣米使節が乗る『ポウハタン号』の護衛艦として派遣されたのが咸臨丸です。



1860年1月、咸臨丸は軍艦奉行木村摂津守と艦長勝麟太郎のもと約90名の乗組員を乗せて浦賀を出航しました。
暴風雨に見舞われ、日本人乗員は大変な苦労の末、出航から37日後無事サンフランシスコに入港しました。
復路は大きな嵐もなく無事浦賀に入港できました。
日本人初の太平洋横断航海には、ジョン万次郎、福沢諭吉等が同乗していました。
画像は太平洋の怒濤を疾走する咸臨丸の雄姿を想像して描いたと思われる咸臨丸の絵画です。



塔へ上る螺旋階段です。



当時の絵地図?があります。
実際に歩きまわると、その位置関係が少しずつわかってくるのも、散策の楽しみです。



内部の部屋の配置や、その造りは重厚で、存在感があります。



いくつかの部屋は、会議室として希望者に利用できるそうです。



特別室は正確な方位を向いた八角形で、創建時の天井には鳳凰の刺繍が施されていました。
当時はオペラやバレエを鑑賞する際に、待合室として利用されたようです。



続く......................................................。