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私の「本づくり」第2話:機関誌「十勝野」創刊に係わる

2021-12-03 10:03:12 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

私の「本づくり」第2話

機関誌「十勝野」創刊に係わる(十勝農試緑親会1969)

十勝農試(現、地方独立行政法人北海道立総合研究機構十勝農業試験場)の歴史は、北海道庁が1895年(明治28)に十勝農事試作場仮事務所を晩成社社宅内に置き試験研究をスタートしたことに始まる。以降130年余り、十勝農試は自然条件の厳しい道東十勝地方の農業発展を技術開発面で支え続けてきた。

筆者は1966年(昭41)十勝農試に就職した。勤務地は市街から5kmほど離れた場所にあり、畑が何処までも続く平野の真ん中に庁舎が建っていた。春先の砂嵐には驚いたが、防風林と遠望できる日高の山々は心を癒してくれた。職場には「緑親会」と呼ぶ親睦会があり、歓迎会・送別会、旅行会やスポーツ大会などが全員参加で楽しむ雰囲気の職場だった。親睦会幹事を毎年4名選出し、その幹事が年間の親睦行事を計画しお世話する役割を担うことになっていた。

1969年(昭44)幹事役を仰せ付かった。この年に機関誌「十勝野」が誕生することになるが、当時の様子が「十勝野」第10号に紹介されているので一部を引用する。因みに、「十勝野」はその後も発行が続き、筆者の手元に第31号まで揃っている。

 

◇「十勝野」創刊の頃

10号記念誌に寄せた文章の一部を紹介する。

・・・昭和44年、私が緑親会の幹事を仰せ付かった時、会長は山坂誠一、幹事は土屋武彦、松川勲、吉川留蔵(転勤により後に関谷長昭)でした。当時の緑親会は赤井さんが会長を2期務められた後で、緑親会行事が充実期を迎えていました。マラソン大会が企画されたのも、スケートリンクが造成されたのもこの頃でした。スケート大会、スキー大会、テニス大会、ソフトボール大会、文化祭、旅行会、忘年会など沢山の行事が実行されました。野草を食べる会が企画され、野の草花の名前を覚えたのもこの頃でした。緑親会が創設された昭和13年頃が第一期黄金時代であったとすれば、この頃に第二期黄金時代が始まったように思います。

このような土壌が「十勝野」を生み出す背景だったと思います。山坂緑親会の機関誌発刊という企画に寄せられた会員諸氏の多大な賛同が、「十勝野」を生み出す母体となりました。「十勝野」命名のいきさつについては、創刊号に書いたので省略します・・・以来、山坂会長の筆になる「十勝野」の文字が機関誌の表紙を飾るわけです。後世に残る題字を書けるのは創刊時の会長の特権です。達筆では飽きが来るので困ります。味のある字にして下さいと何回も書き直してもらいました。題字の思い出として山坂さんが何か書かれる事でしょうが、私はこの字を大変気に入っております。山坂さん、どうか鬼の編集子の言葉をお忘れ下さい。

当時、創刊号と2号は会員の数ギリギリしか印刷しませんでした。所詮十勝野は緑親会の機関紙に過ぎず、緑親会行事の記録と会員の落書き帳であればよいと考えていたからです。しかし、創刊号に緑親会史を紐解くと題して特集を組んだことから、嶋山、大島先輩のお便りを頂くことになりましたし、緑新会の発足当時を知ることも出来ました。十勝野の号が進むにつれ、十勝農試を去った諸先輩の便りも掲載され、発行部数も増加しました。十勝野の独り立ちと歩みを嬉しく思います。・・・私は今、十勝野を書棚の特等席に並べています。年に一冊一冊増えて行くのは喜ばしいことです。マラソン大会の季節が来ると今年の記録は何秒だったかと十勝野を開きます。十勝農試を去った諸先輩の文章を読めば懐かしさひとしおです。予期せぬ会員のキラリとした文章を発見して、とても嬉しくなることがあります。そんな時、十勝野の創刊に関係できたことを幸せに思います。願はくは十勝野よ、長生きしてくれたまえ・・・(「十勝野創刊の頃」十勝野10号p39-40)。

(*)十勝農試職員親睦会「緑親会」の発足は1938年(昭13)で初代庶務幹事が大島喜四郎氏、名付け親が嶋山鉀二氏であった(当時の会員13名)。発足時の会則から、親睦会がスポーツ、雑誌回覧、歓送迎会、慶弔などの事業を行い、職員厚生の役割を担っていた様子が伺える。

◇座談会「十勝野編集の思い出」(10号記念誌)から

10号発刊を記念して、創刊から10号までの編集者(村井信仁、土屋武彦、関谷長昭、長谷川進、犬塚正、成河智明、浦谷孝義、吉田俊幸、花田勉、高橋健治)による座談会が開かれている。一部を引用する。

「当時、何人か語らって文芸誌を発刊しようとの話があったのですが、長く続けるのは無理と思われ、職員の親睦の記録をとどめる機関誌にしたほうが良いとの見解で「十勝野」の創刊を企画しました。そこで、先ず機関誌の名称募集ですが、誌名は健全で革新的、しかも品位豊かであること、表紙にデザインされた時芸術的に優れたものであること(笑い)と銘打ってやり、人気投票で選考しました。要領はPR活動自由、ただし買収を禁じ口頭及びビラによるものとするとして、推薦ビラ、反対ビラなど甚だしいビラ合戦を展開したものでした。その結果、成河さんらによる「十勝野」という名前が採択されました(注、その他に防風林、火山灰、豆の花、きずな、沃野、萌木、若鮎など)。表紙の題字については当時会長の山坂さんにご苦労を願いました。上手でなく、下手でもなく味のあるものをと注文を付け、何枚も書いてもらった中の一枚が現在も表紙を飾っています。創刊号には緑親会史を紐解くと題した特集を載せ、2号では親睦会創立に係わった大島、嶋山さんから回想文を寄稿頂きました。また、会員の番付表を載せるなど編集を楽しんだ思い出があります」

「編集には苦労した。行事の記録ばかりになってしまい、文芸作品が集まらなかった」

「編集者の心意気があれば何とかなるのでは・・・」

「農試で働く者にとって、十勝野は一つの息抜きではないだろうか。気楽に書いて、気楽に読める楽しさがある」

「長続きするためには落書き帳の気安さも必要だが、落書きの中に自己主張がないと面白くない。本気で描いた作品は面白い。編集長の心意気で、どういう個性を引き出して行くかが十勝野を育てることになるだろう」

「十勝農試の公式記録ではないが、各号の特集記事や行事記録は時が経てば資料価値が出て来る。やはり続けることに意味がある」

真摯な議論が展開されている。

◇上川農試の「むーべる」

上川農試(永山)にも同様の職員親睦会がある。「むーべる」と言う。意味は何だと聞いたら、「飲む」「食べる」を複合した造語との説明を受けた。職員の親睦と言えば、飲み食いが主流の時代だった。

或る時、十勝から上川農試へ転勤した砂田さんが「十勝野」を真似て上川でも機関誌を創ったよ、と冊子を見せてくれた。誌名は「むーべる」、創刊は1971年(昭46)のことである。その後「むーべる」も発刊を重ね、筆者の手元に30号があることから長く続いたことだろう。

◇「十勝野」「むーべる」寄稿文

「十勝野」は多くの方々が編集に携わり、多くの寄稿文が寄せられた。どの時代にも「十勝野」は職員親睦の灯だった。会員であった多くの方が「十勝野」にまつわる思い出を共有しているに違いない。今ともなれば、「十勝野」は歴史的資料としての価値もある。全巻揃った「十勝野」が閲覧できるのは十勝農試図書室だけだろう。

寄稿文を拾い出してみた。

*土屋武彦(1969):編集後記「マンチスの歌」十勝野創刊号p65-67

*土屋武彦(1969):「緑親会史をひもとく」十勝野創刊号p3-11

*土屋武彦(1969):編集後記「マンチスの歌」十勝野2号p96-98

*土屋武彦(1974):「ナポレオン健在なり」十勝野8号p52-53

*土屋武彦(1976):「十勝野創刊の頃」十勝野10号p39-40

*土屋武彦(1976):「常勝青組何処へ行く」十勝野10号p86-87

*土屋武彦(1977):「孤独なる走者の記録」十勝野11号p47-48

*土屋武彦(1979):「アルゼンチン雑感」十勝野13号p66-69

*土屋武彦(1980):「アルゼンチンの人々」十勝野14号p73-77

*土屋武彦(1984):「アルゼンチン研修員のことなど」十勝野18号p43-44

*土屋武彦(1987):「緑親会の皆様へ」十勝野21号p7-8

*土屋武彦(1991):「十勝野第25号記念寄稿、十勝野を創った人達」十勝野25号p2-3

*土屋武彦(1991):「鼓琴の悲」十勝野25号p27-28

*土屋武彦(1991):「母を尋ねて千五百里、マレーシア遺伝資源探索旅行記」十勝野25号p28-30

*土屋武彦(1992):「鼓琴の悲、十勝野の故佐々木さん」十勝野26号p19-20

*土屋武彦(1997):「個人の行動」むーべる26号p15-16

*土屋武彦(1998):巻頭言「農民に愛され信頼される」むーべる28号p1-2

*土屋武彦(1998):「育種・人との出会い」むーべる28号p67-69

*土屋武彦(1999):巻頭言「フレキシブルに迅速に、そして専門性を総合化」むーべる29号p1-2

*土屋武彦(2000):「パラグアイ国から今日は」むーべる30号 p3-5

 

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