人間は誰でも、人生で一度や二度「本づくり」に係わった経験があるだろう。子供の頃、教師に言われて作文、詩、俳句を作り、それが掲載された文集を開くときに覚えた微かな不安と興奮。ふとした瞬間に往時の感覚が蘇り「本づくり」に駆り立てるのかも知れない。
或る男の「本づくり」足跡を辿る。
(第1話)同人誌「だむだむ」創刊に係わる(北大文芸同人1964-65)
(第2話)機関誌「十勝野」創刊に係わる(十勝農試緑親会1969)
(第3話)「豆の育種のマメな話」自費出版する(2000)
(第4話)「専門家技術情報」を発刊する(パラグアイ2000-08)
(第5話)季刊誌「北農」編集発行人となる(北農会2008-12)
(第6話)私の恵庭散歩シリーズ「恵庭の記念碑」「恵庭の彫像」「恵庭の神社・仏閣・教会堂」自費出版する(2017)
(第7話)「幼少期の記憶」を編集出版する(恵庭市長寿大学大学院第17回生幼少期を語る会2020)
(第8話)「ラテンアメリカ旅は道づれ」「パラグアイから今日は!」「伊豆の下田の歴史びと」「伊豆下田里山を歩く」自費出版する(2021)
なお、本章には本来業務で執筆した書籍や資料は含んでいない。いわば遊び心の産物に限定した。
私の「本づくり」第1話
同人誌「だむだむ」創刊に係わる(北大文芸同人1964)
恵迪寮での2年間の生活を終えようとしていた頃、朋友羽柴が同人誌を創ろうと話を持ってきた。この大学に文芸同人誌が無い。会津寮の穂積と管君が同人誌を出そうと相談に来たと言う。ときは60年安保闘争の波が収まり全学共闘会議が台頭する前の頃。学生運動と言ってもベトナム戦争反対、原水爆実験反対のデモ行進と米国領事館前で気勢を上げるくらい。学生たちには鬱積した気持ちを発散させる術を模索しているような時代であった。
創刊同人に加わったのは、土屋武彦、本庄淳(羽柴敏彦)、穂積忠、管栄治、石村正の5名。各自作品を持ち寄り、北大生協プリント部でタイプ印刷謄写刷の冊子を出すことになった。原稿を印刷所に回す当日になって誌名を決めると言う、何とも長生きするような船出であったが、1964年(昭39)11月25日に創刊号発刊。すっかり変色した粗末な紙質の一冊が手元に残っている。掲載広告はバーや喫茶店のみ、当時の同人たちの生活が分かろうと言うものだ。定価100円で生協の書棚に置いた。
第2号以降は同人も増えて一時20人ほどになったが、同人仲間が卒業すると原稿も集まらなくなり、7号で廃刊。編集責任者は、創刊号(穂積忠)、第2号(土屋武彦)、第3号(羽柴敏彦)、第4号(山崎英治・吉田孝雄)、第5号(草薙邦夫)、第6/7号(草薙邦夫)となっている。時には北海道大学新聞で論評されることもあったが、この同人誌を知る人は多くなかったと思われる。また、本誌を図書館や資料室に納めた記憶がないので、現在どこにも資料として保管されていないだろう。幻の冊子である。
ところが、2010年代になってからの或る日、群草の会(発刊人板倉正)発行「北辺の飢狼とど松無宿伝」(パスカル舎)なる叢書が届いた。かつての同人誌「だむだむ」の数編が復刻されていると言って、羽柴兄が送ってくれた。発行人は元同人の板倉正氏だと言う。
氏は叢書の中で「本書に採り上げた作品は1960年代、若者たちが血みどろになり疲れ果てた後の倦怠感と崩壊感に閉じ込められた状況下に発表されたものである。・・・作者たちの蒼き世代の早とちり、うろ覚えや一知半解、強度の思い込み、偏見と独断が大手を振っていた。他方で妙に能天気な楽観論がはびこっていた。手前勝手な革命理論やらよその国の街角虚構に踊るホラ吹きぶりには時に辟易させられたこと多々であった。だから稚拙だ、未熟だ、読むに値しないと遠ざけてはいけない。何故なら、そこに不条理な青春があり若い後悔が充満しているからである。未だに反省できない輩も多数いるが・・・」と述べている。
確かに冊子「だむだむ」の掲載作品は文章も構成も未熟で、作者にとっては抹消したい気持に駆られるかも知れないが懐かしき時代の遺産ではある。
◇「だむだむ」掲載作品
*創刊号:1964年(昭39)
土屋武彦「最初に落葉する樹」、本庄淳「幻影」、穂積忠「聖火通る」、管栄治「被告の一日」、石村正「悪魔」
*第2号:1965年(昭40)
吉田孝雄「擬制」、石村正「海(童話)」、本庄淳「真珠」、山崎英治「季節との対話」、杉山韶子「雑木林・冬」「四つ角の乞食」、土屋武彦「片隅の赤い円」
*第3号:1965年(昭40)
山崎英治「緑の謀叛」、北逈人「イカンガヤ」「オワカレ」、土屋武彦「立ち待ち岬まで」、吉田孝雄「抒情のために<M・Aへ>、管栄治「太宰治の妻?」、伊藤綾子「雪の中の思い出」、本庄淳「鏡の中の男」
*第4号:1965年(昭40)
土屋武彦「かくも退屈な」、山崎英治「八月の時」、本庄淳「雨」、星由紀彦「利礼島への旅」、室谷隆司「過去の事」、草薙邦夫「埋没の季節」、多架尾正「黎屍様」
*第5号:1966年(昭41)
宗像誠一郎「錯乱」、多架尾正「黎屍様」、石村正「手」、本庄淳「墜落」
*第6,7号:1966年(昭41)
望月泰宏「武田泰淳論ノオト(その一)」、草薙邦夫「初冬」、宗像誠一郎「火焔の誘い」、納戸国夫「青木は嘲笑的に死んで行った。」、草薙邦夫「断想」、本庄淳「墜落(二)」
◇北海道大学新聞の書評
*北海道大学新聞(昭和40年4月10日)記事「雑誌評論」を一部引用する。
・・・だむだむ2号 文芸同人誌、三人の詩と二編のSF?メルヘンと二つの創作。1号もそうであったが、この暇潰しのような多様さ、無定形さは確かに習作誌的な強烈さがある。
「擬制」は良く整理された詩であり、不条理=神への反抗が排他的に書かれたと受け取る。無制限空間の存在物の地球を先に見、次に地上の人間に目を向けた。詩の単語選択の適切さに感心しないわけではないが、「死をぼろぼろと殺す」「リンパ液の流失する美しさ(キリスト処刑)」「祈りをたたきつける」のあげくの果てが「人々」ではなく「君よ武器をとれ」では、おきまりの「入口の門まで」ではないか。「海」は小学校二年生用に書かれたのであろうが、「永い時間が必要」は子供に不幸を感じさせることだろう。
「真珠」は昼間の夢想である人物は学生とまた学生と変な教授と「小柄な、それでも肉付きの良い女性=模造真珠」と、「ロン」の従業員。すべて地上の人間ではなくアスファルト上のヒトだから誰が病人なのか見当がつかない退屈な日常を裏に返すとこんな虚構も本物なのだろう。「臨工」「活動」ってのはどう受け取ればいいかわからなかった。「季節との対話」は表現が婉曲すぎないか。「美しい夕焼け」は全体をぶち壊しているし、「ぼく達のこの土地」と「冬枯れ」はよく結びついているが、「詩の季節」が真夏のつららのように存在を失う季節もある。・・・〈中略〉
・・・「片隅の赤い円」は四章までまとまりと連続性がある。とにかく筋が理解できる。(二)までは二人の男(詩人の腐れたのと俗物)と一人の女性(若いきれいなのにきまっている)の位置がよく定まっている。しかし、組織矛盾についての人間の具体性になると(三)では油絵と党と自己献身の虚しさである。当然、残りかすの情熱は死への情熱とセックスの情熱である。しかも「吉本」は自殺する女性の傍観者であり、女性の身体を視線でなめる男だ。マゾヒストどころか、彼は殺人もしないし強姦もしない。(四)は愚劣。若者はどうのこうのと言うことはない。(四)の最後がいい。ただ、永久に敗北しないことを自覚している彼なのなら。(Y)・・・
*北海道大学新聞(昭和41年1月10日)記事「雑誌評論」を引用する。
・・・だむだむ4号 文芸同人誌「だむだむ」も第四号で創刊一周年を迎えた。この一年間に「だむだむ」は内容的に一足飛びの発展をとげ、とりわけこの4号はずっしりとした重量感を読む者に与える。管見によれば、「かくも退屈な」(土屋武彦)、「黎屍様」(多架尾正)の2小品が珠玉。
「かくも退屈な」は(ぼく)という留学生たる人物を設定し、そこに作者自身を投入するという形式をとった作品である。自分の身を位置すべき場所を見いだせず、退屈をまぎらわし、「そこに位置すれば、何かが起こるかも知れない」(何も起こり得ないことは十分知りながら)という幻想にかられ、騒々しい喫茶店に投じた、あまりにも喜劇的な諦念に把われてしまっている一学生を設定する。そして、アルメという女子学生の死、そのことと大学助教授との関係など種々の事件を設定し、その渦の中にまき込まれたその学生の行動を追う。しかしながら、この小説はおうおうにして”学生小説“に見られる如き、小説の枠内で起こる事実の追跡におわれ、そこに設定した人物の意識の内部を十分に描写するには至っていない。この作品が珠玉だといったのは他の数編の作品に比べ”格段”の差をもって状況描写が優れているからである。こういった意味でこの作品においては、作者の意図を対象化した~作者(私)の対象である~作品の人物の意義と、作者自身の意識との分離という作業がはっきりなされておらず、従ってその間の輪郭がぼやけてしまって、どちらかというと低俗な“学生体験小説”に堕としがちなのではないか。
多架尾正「黎屍様」は小説とはいえず、どちらかといえば作者自身の想念の断片的な評論独白集とでもいえる作品である。作者の表現位置からみても、作者自身は作中の(黒岩)なる人物にそのまま乗り移って、そこに自己の意識を投入している。作者の持つ「想念の形態」は「暑黒に色の染みついた扉が陽光を斜めに受けて静かに開き始めた。なんの軋る音もしなかった。滑らかに扉が解き放たれるとその暑い空気の放出とともに陰湿な内部の情景を薄明りで照し出」されている光景のようなものである。そして他人にとって作者の姿は「想像しえない程豊かな苦悩をもっていた」としても、その痛々しさ「何か作り上げられた匂いのするものとして」しか受けとめられない。
ところが別の視覚からもこの作品は大きな意味を内包しているのである。それは序詞を見れば明らかである。「明るく朝に黎明の白光を凝視め、また厚く塞がれた夜を思う。」ここ数か月間少子は黎明の素晴らしさ恐ろしさを知らない。しかし作者の意識の内部においては夜明けの黎明の静かだが恐ろしく大きなエネルギーを内に秘めた“薄明”とが二重写しとなって拡がった「黎屍様」の世界の中にいるのである。ズブズブとした、のめり込まれるような沼水池に立たされたような不安定な意識、そのような内的意識の一層に拡大鏡をかけながら、作者は「夜」という言葉を媒介にして稿を進める。作者にとってこの作品は「流れとして感じ、そして怒涛の如く押し寄せ、そして風に散るようにもとの枠に戻っていってしまった大衆への疑惑」の表白であったのだろう。(町田)・・・
◇時代を反映した若者群像
作品も書評も青臭い。思考も技術も未熟で独りよがりな部分が目立つ。しかし、これら習作や論評から時代が見えるのも確かだ。鬱積の時代に何かをしようともがく当時の若者たちの姿(それは自己満足にすぎないと気付きながらも夢中になる)を想像することは出来る。
同人から文学賞にノミネートされるような作家も、執筆を生業とするような者も出なかったが、時代を反映する資料としての価値はあるかも知れない。
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