竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 三二五 今週のみそひと歌を振り返る その一四五

2019年06月29日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三二五 今週のみそひと歌を振り返る その一四五

 先週の後半から巻十六 有由縁并雜謌に入り、鑑賞しています。本来ですとこの巻十六に載る短歌は基となる長歌や前置漢文、左注の漢文などとともに鑑賞すべきですが、弊ブログの遊び方のルールにより分離して鑑賞しています。
 この巻十六は「有由縁并雜謌(由縁あるものに併せてくさぐさの歌)」と紹介するように、いろいろな種類の歌が集められています。今週の歌の中から、全体像が判るように一つの作品をすべて紹介します。作品は集歌3804の歌につけられた前置漢文から集歌3806の歌の左注までが一つの作品群となっています。

昔者有壮士。新成婚礼也。未經幾時忽為驛使、被遣遠境。公事有限、會期無日。於是娘子、感慟悽愴沈臥疾疹。累年之後、壮士還来、覆命既了。乃詣相視、而娘子之姿容疲羸甚異、言語哽咽。于時、壮士哀嘆流涙、裁謌口号。其謌一首
標訓 昔者(むかし)、壮士(をとこ)有りき。新たに婚礼を成せり。未だ幾時(いくばく)も經ずして、忽(たちま)ちに驛使(はゆまつかひ)と為し、遠き境に遣(つかは)さゆ。公事(くじ)に限(かきり)有り、會期(かいき)に日無し。ここに娘子(をとめ)、感慟(なげ)き悽愴(いた)みて疾疹(やまひ)に沈み臥(こや)りき。年を累ねて後に、壮士還り来りて、覆(かへりごと)命(まを)すこと既に了(をは)りぬ。乃(すなは)ち詣(まい)りて相視るに、娘子の姿容(かほ)の疲羸(ひるい)は甚(いた)く異(け)に、言語(ことば)は哽咽(こうえつ)せり。時に、壮士哀嘆(かなし)びて涙を流し、謌を裁(つく)り口号(くちずさ)みき。其の謌一首
標訳 昔、男がいた。新たに婚礼を行った。未だ幾らも経たない内に、急に駅使に選任され、遠い国に遣わされた。公(おおやけ)の仕事には規定があるため、二人が私(わたくし)に会う日は無い。そこで娘は、嘆き悲しんで病に罹り床に伏してしまった。年をかさねた後に、男が故郷に帰ってきて、その任務の完了の報告を既に終えた。そして、娘の処にやって来て互いに姿を見ると、娘の姿・顔形はやつれ果てて酷く面変わりしていて、言葉はむせぶばかりであった。その時、男は悲しんで涙を流し、歌を作り口ずさんだ。その歌の一首。

集歌3804 如是耳尓 有家流物乎 猪名川之 奥乎深目而 吾念有来
訓読 かくのみにありけるものを猪名(ゐな)川(かは)し奥(おき)を深めに吾が思(も)へりけり
私訳 通り一遍の間柄だけだと思っていたが、そうではない、猪名川の川底ほどに深く私は貴女を慕っていたよ。

娘子臥聞夫君之謌、従枕擧頭應聲和謌一首
標訓 娘子の臥して夫(せ)の君の謌を聞き、枕より頭(かしら)を擧(あ)げて聲に應へて和(こた)へたる謌一首
集歌3805 焉玉之 黒髪所沾而 沫雪之 零也来座 幾許戀者
訓読 ぬばたまし黒髪濡れに沫雪(あはゆき)し降るにや来(き)ますここだ恋ふれば
私訳 漆黒の黒髪は濡れて、沫雪が降るのにかかわらず貴方はやって来ました。私がこれほどに慕っていたから。
左注 今案、此謌、其夫、被使既經累載而當還時、雪落之冬也。因斯娘子作此沫雪之句歟
注訓 今案(かむが)ふるに、この謌は、その夫(せ)の、使を被(こほむ)り既に累載(るいさい)を經て還る時に當り、雪落(ふ)る冬なりき。これに因りて娘子(をとめ)この沫雪の句(うた)を作れるか。
注意 集歌3805の歌で「焉玉」の「焉」は「焉烏(エンウ)」の言葉から「烏」の当字で、「烏玉」を表すため、誤字ではありません。逆に、焉玉と記すことで、その語意から黒い髪に雪がまばらに積もる情景が出てきます。

集歌3806 事之有者 小泊瀬山乃 石城尓母 隠者共尓 莫思吾背
訓読 事しあらば小泊瀬山(をはつせやま)の石城(いはき)にも隠(こも)らばともにな思ひそ吾が背
私訳 もし、何かがあって小泊瀬山のお墓に入ることがあるなら、貴方と二人一緒です。そんなに、色々と心配しないで、私の貴方。
左注 右傳云、時有女子。不知父母竊接壮士也。壮士、悚惕其親呵嘖、稍有猶預之意。因此娘子裁作斯謌贈歟、其夫也
注訓 右は傳へて云はく、「時に女子(をみな)あり。父母に知らずて竊(ひそか)に壮士(をとこ)と接(まじ)はる。壮士、其の親の呵嘖(のら)はむことを悚惕(おそ)りて稍(やくやく)に猶(なほ)預(よ)ふ意(こころ)あり。これに因りて娘子、斯(こ)の謌を裁作(つく)りて贈るか。その夫(せ)なりや」と。
注訳 右は伝えて云うには「時に女が居た。両親に知らすことなく密かに男と男女の交わりをした。その男は女の親に叱責されることを怖れて、ぐずぐずと躊躇する気持ちがあった。そのために娘はこの歌を作って男に贈ったのだろうか。その恋人なのだろうか」という。

 この歌の内容からしますと、万葉集に最初に載せられた時点では集歌3804の歌の前置漢文と和歌三首に集歌3805の歌の標題だけだったと思われます。その後、二十巻本万葉集の整備が終わり、それが世に伝わり始めた平安時代中期以降の写本や解釈時代に集歌3805の歌や集歌3806の歌の左注が付けられたのでしょう。
 すると、面白いことが判ります。
 集歌3805の歌の左注は、注釈を書き加えた人の個人的な鑑賞を載せていますが、集歌3806の歌の左注では万葉集解釈の師匠が為した解釈を評価・評論することなくそのままに書写の時に書き加えています。当然、歌の鑑賞態度からすると集歌3805の歌の左注の人と集歌3806の歌の左注の人とは別人でしょうから、この時点までに少なくとも2回ほど写本が行われ、注訓が加えられたと思われます。
 左注からしますと、集歌3805の歌の左注はまず納得がいきますが、集歌3806の歌の左注が想像したものは集歌3804の歌の前置漢文で示す内容とは相違します。まず、変な解釈です。そこで左注を書き加えた人は「右傳云」の言葉を書き加え「私の解釈ではなく、師匠の解釈です」と逃げ出しています。
 もし、集歌3806の歌を解釈した師匠が、万葉集全体を講釈しているのですと、非常に困った話です。それと、そのような変な解釈が和歌道の中で師匠と云う権威と云う形で伝承されているとしますと、間違いを正せない和歌道というものの怖さを感じます。少なくとも、元暦校本時代以降に訂正や批判がありませんから、鎌倉時代の和歌道では師匠の解釈の訂正や批判は良くないことだったのでしょう。

 奈良時代中期以前、地域で驛使の御用を受けるような知識階級の男と正式な婚姻をするような娘は一定の資力を持つような有力者の子女でしょう。妻問ひ婚の時代ですから娘は実家で病床に就いていたとしますと、その地域での医療水準での看護を受けていたと考えます。
 そこからしますと、歌が詠われたとき娘は回復不能な状態の床にあり、そのような状態での夫と妻との相聞問答歌と考えるのが相当です。そこで集歌3806の歌で娘は「この世では御用があり夫婦事は出来なかったが、死んだ後には同じ墓に入り、あの世で夫婦事をしたい」と歌ったのでしょう。この問答が理解できるか、どうかで、集歌3806の歌の左注に「右傳云」という言葉を入れる感覚なのでしょう。


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