満身これ学究 吉村克己 文藝春秋
副題は「古筆学の創始者、小松茂美の闘い」で、表題は作家の井上靖が茂美を讃えた言葉である。古筆学とは、「古筆」と呼ばれる書道史上の名筆の真偽をはじめ、その内容、筆者、書写年代などを明らかにし、それらを系統的に分類整理する学問である。毎日、3~4時間の睡眠時間で、三十年以上も費やし、撮影できる限りの古筆切れを撮影、収集分析し、1989年から五年かけて『古筆学大成』全三十巻という大著を発行した。この書で古典研究の土台が出来上がったと言われる。まさに古典の基礎研究の代表的なものと言える。古典研究は本文の校勘、即ちテキストクリティークにあることを実証したものと言える。
小松氏の特異な点は、その学歴・職歴が普通の学者と違っているところである。彼は旧制中学卒後、広島鉄道局柳井駅勤務から始めて、東京国立博物館学芸部美術課に職を得てから研究に没頭し、先の成果をあげた。学歴なしで学者になった立志伝中の人なのである。彼が古典研究に志すきっかけは宮島の厳島神社に収められている「平家納経」を見たことである。以来、上級学校への進学は叶わなかったが、熱い思いで、研究者を夢見てその夢を実現した。氏の生き方をみると、日々怠惰に過ごしているわが身が恥ずかしい。氏の努力は誠に正真正銘の努力で、純度100%だ。このような人文科学の分野で地味な研究に一生を奉げて悔いなしとする人間がいることを嬉しく思う。利益・打算・地位・名誉を、何かはせんという覚悟で研究に没頭する姿は崇高である。
最近の大学は実学優位で、まるで資格を取るための専門学校のようなところもある。かつての教養主義は廃れつつあるが、これをなくしては大学のアイデンティティーが成り立たない。就職するために大学に行くのではない。学問と就職は無関係なのだ。最近、高校ではやりのキャリア教育なるものも、この教養主義の視点がスッポリと欠落している。小松氏の生き方から、学問とは何かということについて思索して欲しいものだ。