読書日記

いろいろな本のレビュー

私はホロコーストを見た ヤン・カルスキ 白水社

2012-11-03 08:51:52 | Weblog
 ヤン・カルスキは1914年、ポーランドのウイッテに生まれ、ルヴフの大学に入学して法律と国際外交を学んだ。卒業後外務省に入省。入省間もない1939年夏、予備役将校として動員された。ドイツ軍の電撃作戦で彼の部隊は壊滅状態になり、東に遁走したが、今度はソビエト軍に捉えられてラーゲリに移送された。しかし1939年の独ソ不可侵条約の規定で、占領下ドイツに併合された地域出身のポーランド兵士はドイツの準国民と見なされて捕虜交換の対象となることが分かった。そしてソ連赤軍からナチス・ドイツの捕虜になり、占領下のポーランドに戻り、そのまま強制収容所に入れられるも、脱走し占領下のワルシャワに帰還、レジスタンス運動に加わった。写真の顔の傷はナチス・ドイツのゲシュタポから受けた拷問の痕で、厳しい捕虜生活を想像させる。
 そしてある時期からレジスタンスが立ちあげたポーランド秘密政府のクーリエ(伝令)となり、敵国・非友好国を命がけで横断するようになる。またやがてユダヤ人指導者たちの依頼を受けて、ワルシャワゲットーや強制収容所に潜入し、ナチスによるユダヤ人虐殺の目撃者となる。この重大な事実を英米の政治指導者に知らせることも重要な任務であった。
 カルスキはその後、アメリカに亡命し、ワシントンのジョージタウン大学で長年教鞭をとっていたが、2012年5月29日、アメリカ大統領オバマから、「大統領自由勲章」を授与された。これはアメリカで文民に与えられる最高の賞である。
 このスパイ小説さながらの主人公を地で演じたカルスキの記録は、ナチス・ドイツとソ連に蹂躙されたポーランドの歴史とヒトラーによるユダヤ人の虐殺の実相を伝えて、読者を粛然とさせる。
 ソ連軍に捕まった時点で彼はカチンの森事件に巻き込まれる可能性があったが、交換でドイツ軍の捕虜になったために難を逃れた可能性がある。ソ連はスターリンの指示でポーランドを将来属国として固定するために、インテリ階層を絶滅しようとした。そのために、捕虜とした将校を虐殺したのである。ソ連は最初ドイツ軍の仕業だと言い逃れしていたが、戦後ソ連の虐殺行為であったことがはっきりした。
 カルスキは連合国の戦争犯罪捜査委員会に召喚され、ワルシャワのユダヤ人ゲットーとベウジェツ絶滅収容所(実際は、イズビッツア・ルベルスカ収容所)で目撃したことを証言した。ゲットーでのナチスによる人間狩り、それは無作為に銃を発射して不特定多数のユダヤ人を殺して楽しむ非道な行為である。また、絶滅収容所では鉄道の貨車にユダヤ人をギュウギュウ詰めにして生石灰と水を混ぜ、100キロ離れた草原の誘導し3日待って、確実に死が訪れた時点で、若くてがっしりしたユダヤ人の若者が、湯気を立てている死体を大きな穴に放り込む。この若者たちもいずれは同じ運命をたどる。収容所では毒ガスで大量虐殺を実行したことが一般的に報じられているが。この貨物車に押し込んでの虐殺もその苦痛の度合いから言ってさらにひどい犯罪と言えるだろう。「人道に対する罪」というのは大げさな修辞ではない。上下二巻、640ページの大著だが、読むのが苦にならない。翻訳者の吉田恒雄氏の力である。

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