読書日記

いろいろな本のレビュー

ヒトラーの絞首人ハイドリヒ ロベルト・ゲルヴァルト 白水社

2017-07-15 13:58:53 | Weblog
 ハイドリヒはナチスドイツの国家保安本部(RSHA)の事実上の初代長官、ドイツの政治警察権力を一手に掌握し、ハインリッヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の実力者であった。ユダヤ人問題の最終的解決の実質的な推進者で、その冷酷さから親衛隊の部下たちから「金髪の野獣」と渾名された。戦時中にはベーメン・メーレン保護領(チェコ)の統治に当たっていたが、1942年6月4
日、大英帝国政府及びチェコスロバキア亡命政府が送りこんだチェコ人部隊によって暗殺された。享年38歳。本書は彼の伝記である。
 ハイドリヒの写真を見ると、長身、で眼光鋭く、いかにもナチ幹部という感じだ。おまけに金髪、碧眼で絵にかいたようなアーリア系だ。この容貌が出世を早めた可能性が大きい。彼は1904年ハレ市の音楽を職業とする特権的なカトリック信者の家に生まれた。母エリザベートは子どもたちを導いてゆうべの祈りを捧げさせ、日曜日には家族全員でミサに出席した。ラインハルト(ハイドリヒ)は地元のカトリック教会では侍童を務めた。ともあれ彼は圧倒的にプロテスタントの多いハレ市の中の少数派の一員だった。ハレ市17万人の94%がプロテスタントでカトリック信徒は7000人強に過ぎなかった。よって、彼がナチ高官に栄達するまでにはいろいろと苦労があった。
 それは元々ナチズムに親和性があって栄達したというのではないということである。著者曰く、戦争と革命の陰に生きた少年期、家族の社会的没落、極めて民族主義的なワイマール期海軍での生活、こうした体験は、彼をたやすく右翼政治に走らせる要因となったはずだった。しかし、彼がナチズムに帰依したのは、軍人としてのキャリアが突然、予期せぬ形で断たれたのちの、ようやく1931年になってからのことである。海軍を放逐されたことによる生活の不安とナチ党シンパである婚約者とその両親からの次第に強まる影響、これらが彼を幹部職員としてSS(親衛隊)に加わる要因となった。そして入党後のハイドリヒは急速にナチズムを最もその極端な次元において信奉するようになった。そこには、これまでの人生における「失点」、ナチズムへの帰依の遅さとユダヤ人の血を引くという執拗な噂(これにより彼は1932年党による調査という屈辱さえ受けた)、を挽回したいという思いがあったのだと。
 少年時代からの宗教と音楽のある生活、それによって培われた人間性を無理やりナチズムという猛獣に立ち向かわさざるを得なかったところに彼の悲劇がある。ハイドリヒはプラハでは「人間味ある総督」に見せようと心がけたらしい。そのため自家用のベンツもオープンカーにしてプラハ市民に自分の姿がよく見えるようにして走らせることが多かった。威圧的にならないように護衛車両をつけることもあまりしなかった。ヒトラーもヒムラーも護衛に無頓着な態度を頻繁に戒めていたが、ハイドリヒは最期まで耳をかさなかった。これが結局命取りになってしまった。「金髪の野獣」の実相はこれだった。この暗殺事件を扱った映画、「ハイドリヒを撃て」が8月12日から公開される。ハイドリヒはどのように描かれているのだろうか。
 
 

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