ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

孔子先生

2023-08-21 09:20:18 | 日記・エッセイ・コラム
孔子先生は貶められている。
その出身のシナと謂う国に。
彼らは先生の教えを知ってはいても、
なぜだかまったく身に付いていない。
何なんだろうこれは。
それに欧米ではすっかり嫌われてしまった、
例の孔子学院である。
日本は未だ手つかずのようだが。
バカと言うかしたたかと言うか、
何を想うのか日本は。
・・・・・
孔子先生の言葉に以下がある。
子曰く、
吾十有五にして学に志し、
三十にして立ち、
四十にして惑わず、
五十にして天命を知る、
六十にして耳従う、
七十にして心の欲する所に従いて矩をこえず、
と。
他にも名言が山ほどある。
なべて`なるほど`と思うものばかり。
人生の機微と核心に満ちている。
立命館大学の名誉教授だった白川静先生が言っていた。
孔子先生は祈りの人であったと。
あちこちの冠婚葬祭など儀式に赴いて、
歌舞音曲と伴に祈りを捧げていたとか。
そういう生業をしていたと。
そこには弟子達もいたろう。
一般的には儒教の祖と言われているが、
そこに宗教家のイメージはない。
吾鬼神を語らずとも言っていた。
これは鬼神の否定ではない。
それは内向きの問題として捉え、
外向きはあくまで合理性を追求、
そういうことかと。
だから私は宗教だとは思わない。
でも教を学と解すれば異論なし。
それは素晴らしい人生哲学であり処世訓であろう。
それが今に論語として残る。
それがすこぶる素晴らしく、
それゆえその教えに傾倒する者も多く、
だからか教と化したのかも。
そういうことなら。
・・・・・
想えば孔子先生は、
言葉の持つ二面性(誠と虚)を知り、
その`まみれ`を嫌ったのか、
それゆえの合理性追求なのかと。
その思いが今に伝わる。
しかるにシナでは、
その過酷な大地ゆえか、
先生の思いは少しも顧みられず、
専らその名声を以って名を利用するばかり、
それが今に至るまでも。
その積み重ねが今の思想となる。
曰く、中華思想である。
鬼神を個々の内面の問題とするは良し。
それは有りがちな宗教の毒を流すから。
でもその根にある祈りを忘れたら元も子もなし。
鬼神を見失い、己を制御できなくなる。
それもこれもあって今の在り様となる。
そして造っては壊し、壊しては造るの繰り返し、
易姓革命の呪縛から逃れられない。
にしても孔子先生の思いは生きている。
この日本にて。
だから日本は今も蓬莱の島である。
大陸から見れば蜃気楼に浮かぶ蓬莱の島である。
でも昨今の状況を見ていれば、
本当の蜃気楼になりかねない。
今まさに自分を見失っている。
現実に依らない概念は虚だが、
その概念の中に封じ込まれて、
目の前の現実を見失っている。
脳に支配されて体を忘れてる、
脳は体の一部でしかないのに。
このままではこの蓬莱の島も、
文字通り蜃気楼として消える。
それだけは避けなければ。
でもまあ大丈夫でしょう。
日本には天皇がおられるから。
ゆえ祈りが消えることはない。
でもそれも庶民あってこそと。
そこは押さえておきましょう。
・・・・・
今回孔子先生を持ち出したのはなぜか。
それは上での先生の言葉に依ってです。
七十にして心の欲する所に従いて矩をこえず、がそれです。
この言葉に惹かれたのである。
己の由をまんまに生きて、なお矩をこえないのです。
これは自由の極致である。
これは虫の世界でもある。
己の世界をまんまに生きても尚神の手中懐中から離れない。
ときにそこはまんまエデンの園となる。
それが祈りの大業だろう。
だから前に言ったのだが、
現下の世界には大きな癌があると。
それはリベラル・中華思想・原理主義の三つ。
そこで今私の脳に浮かぶのです、
そして見える。
イエスは天を仰いで慨嘆する、
孔子先生は口を結んで憮然とする、
ムハンマドは奥歯噛みしめ地平を睨む、
そんな姿が見える。
てかこれは蜃気楼なのか、
てか間違いなく蜃気楼である。
でもなぜか妙に鮮明なんです。
うん!