ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

いのちの風

2023-08-07 08:46:01 | 日記・エッセイ・コラム
いよいよ8月が来た。
あの8月です。
護国神社には折に触れ参っているが、
8月は特に感慨深いものがある。
夏の象徴の一つに蝉しぐれがあるが、
これがまた良き伴奏となり、
郷愁を誘うのです。
それにまた木の葉を縫うように吹く風の、
その葉音にも。
さらにまた盛りの命の息吹や匂いまでも、
そこに乗って来る。
いのちの風の心地よさ、
良きかな、
・・・・・
にしても日本人は特異である。
その耳が聞き分け方が。
生き物が放つ揺れる音も羽音や叫びにも、
音として感じるのは当然のことだが、
それを声として捉えもする。
だから木々や草花とも話をする。
だから鳥や獣とも話をする。
そういう感性を持っている。
それに木の葉の葉音の囁きにも、
それに川の岸辺のせせらぎにも、
それに海辺に打ち寄せる波にも、
その音を聞き分ける、
そしてときに声として聞く。
そういう自然への接し方を持っている。
先に匂いも風に乗ると言ったが、
それは厳とした事実ではあるが、
なおそれは貴人遊びの香道では、
香りを聞くとも謂う。
なおそれに酒好きの銘柄当ては、
それを聞き酒と謂う。
音でないものさえも聞くのです。
実に特異な聞き方をするである。
でも普通は、
音に意味を持たせたものが声で、
その声が言葉となり意味を持つ、
それを聞くと謂う。
しかしてそれは音でなくともいいのだ。
そのひとつが匂いである。
そのひとつが味である。
他諸々何でも有りだ。
例えば老練な木の専門家は、
それが植木職人であっても、
それが大工職人であっても、
木に聞いて仕事をするとか。
それは結局波動を捉えているのだろう。
その物が持つ存在の波動を。
それらすべてを聞くと謂う。
これも大和心の顕われかと。
・・・・・
だからか日本は歌うのです。
その昔から歌っており、
それは一に天皇陛下であり、
それに陛下に連なる皇族や貴族らも、
さらに巷の庶民までもです。
それが万葉集として今に残っている。
それにその後に撰修された和歌集に。
それになお今も毎年歌会始めが行われている。
また現下はJポップやアニソンなど、
日本の歌が世界に知られている。
ちなみに、
和歌や俳句は嗜まないが、
頭に残っているものが結構あります。
すべて学校教育で習ったものですが、
それを以下に。

吉野山やがて出じと思う身を
花散りなばと人や待つらん
(西行法師)
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞ驚かれぬる
(藤原定家)
久方の光のどけき春の日に
しず心なく花の散るらん
()
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
(琵琶法師)
これは和歌ではないが、
琵琶を片手に歌うように語るもの。
それに鐘の音を声と表記している。
そこが…。
敷島の大和心を人とわば
朝日に匂う山桜花
(本居宣長)
ふる池や蛙とび込む水の音
静かさや岩にしみいる蝉の声
(松尾芭蕉)
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
(正岡子規)
海恋し潮の遠鳴り数えては
乙女となりし父母の家
(与謝野晶子)

これらはごく一部ですが、
今頭に浮かんだものを記してみた。
総じて四季が読み取れるが、
四季が日本人の心を育むのか、
日本人の心が四季を捉えるのか、
或いはすべて日本の地霊の導きか。
なべて日本人は感性が豊かなのです。
それが理屈(概念)を包み込んでいた。
今もそうだろうが、
それが少しずつ壊されている。
何とかせなば、
と思うのだが、
・・・・・
最近は少し低調なようだが、
年末にはNHK紅白歌合戦ってのがある。
これも歌う国の一つの顕われではあろう。
そこで歌われて後にヒットした曲がある。
「千の風になって」である。
男性のオペラ歌手が歌っていた。
それには原詩があって、
それは外国のようです。
アメリカとのことだが作者は分かっていない。
それを最初に訳して世に出した人がいる。
その後また別の人が訳したのである。
それを曲にしたのがこの歌です。
構成は概ね原詩そのままで、
内容は少しかえている。
その歌詞が私の心に響くのです。
日本人の心を感じるのです。
特に風に命を乗せるところ。
だからのこの表題「いのちの風」である。
ちなみにYouTubeで見たのだが、
この歌を外国の人が歌っているのを。
勿論この日本の歌を日本語で。
そこでも大きな拍手が。
やはり通じると。
良きかな、