ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

どこに?

2023-08-14 11:18:51 | 日記・エッセイ・コラム
どこに?って、
これは神のことである。
神はどこにいるのかってことです。
そも神はいるのか。
それは前にも言ったが、
神は居るものではない。
神は在るものなのです。
そしてそれはそれゆえ、
神は知るものなのです。
これは言葉を持った人間には必然かと。
そう想うのです。
信じるとか信じないではなく、
知るか知らないかだけのこと。
真に実に、
言が成る、
まことに、
・・・・・
言葉を持たない生き物は、
神を知らない。
言わずもがな。
これまで虫(の世界)を例に何度も言った。
彼らはまんまに生きる。
現実をまんまに生きる。
その生きる場所はごく狭いが、
その場所は宇宙そのものです。
そこに線は引かれていません。
それに神は居るものではないから、
出会うこともない。
そもそこは神の手中であり懐中である。
そこはいつだってどこだって神の場なのだ。
聖書もそのように言っている。
モーセが荒野で神に会い、
そこで御名を問うたとき、
神は答えて言った「Ⅰam 」、
ここに明白である。
人がときに神に出会うのは、
ヒトが言葉を持ったからである。
それが世界に線を引く。
先ず己を世界から引き離す。
そしてそこに現われる己に驚き戸惑う。
それゆえ益々線を引く。
でも線は隙間をつくる。
引けば引くほど隙間ができるのだ。
そこから見えるのは不可思議。
無限に広がる不可思議の世界。
そこに神が現れる。
ときに神を知るのです。
信じるとか信じないの問題ではない。
そこで神の物語を創る。
そして人の物語も始まる。
・・・・・
だから私は無神論を好まない。
それにまた一神教も好まない。
と謂うのも彼らは兄弟だからです。
全体を一つと見れば多神教も一神教となる。
ためには押さえねばならぬことがある。
それは「私」である。
神を見る私が神の外にいれば、
この話は一瞬に崩れてしまう。
神がすべてなら私も神の内にあるはず。
ここに(人の)言葉の毒が潜んでいる。
言葉が私を創るのだが、
その私が毒となるのだ。
その毒を中和する方途がある。
一旦持った私は捨てられないのだが、
だとしてもそういうものだと知ろう。
それを知れば一時的には横に置ける。
ためには神のそもそもを知らねばならない。
でも一神教には毒がある。
私を横に置きずらいのだ。
それさえ克服すれば、
さすれば人は謙虚になれる、
さすれば人は人を尊重する。
そこに多神教の本懐がある。
ちなみに神が沢山いる、のが多神教ではない。
多神教とはすべてのものに神を見る心である。
だから万物一切平等となる。
その平等とは生き物だけではない、
ましてや人間だけではない。
リベラルの謂う平等とはまったく次元の違うもの。
それを知ろう。
念のためにもう一度、
それはすべて「私」が原因なのだ。
ちなみに理屈にはいつも私が付いてくる。
だから日本人は理屈を嫌うのです。
だから日本人は歌うのです。
ちなみにちなみに、
科学はこれを嫌って私を捨てるのです。
そこが科学の素晴らしいところ。
ですがどっこい、
今次の科学には私が付いている、
それもコテンコテンにです。
もうどうしようもない。
究極の袋小路です。
・・・・・
あのアインシュタインは言った。
大正時代だが招待を受けて日本に来たときに。
神に感謝する、日本という国をつくっておいてくれたことを、と。
ときは前後するかも知れないが、
同じアインシュタインが言っている。
私は神を信じない、と。
これは人の形をしたスーパースターとしての神のことで、
これは信じないと。
どっちやねん、信じるのか信じないのか。
てかこれはつまり神の捉え方の問題かと。
また別の話だが、
あの歴史家の泰斗トインビーは言った。
神話を持たない民族は滅んでしまうと。
欧米人でも分かっているのだ。
神を知ることの意味や意義を。
問題は宗教である。
私を創ったのは言葉であるが、
その言葉に強くこだわるのが「教」である。
それゆえ教はときに毒となる。
だから日本は無宗教なのです。
だから「教」ではなく「道」なのです。
だから日本は紛うことなき神国である。
次にニーチェを持ち出す。
彼は「神は死んだ」と言った。
これはどうも以下のようです。
欧米の著しい科学の発達を目の当たりにして、
その力がいずれすべてを解き明かすと、
さすれば今様の神は不要になる、
と謂うことのようである。
欧米人の中には妙な「こだわり」があるようだ。
これが無神論を生みリベラルを生んだのか。
ここで最後に二コラテスラを持ち出す。
彼は言ったとか、
音(とその周波数の違い)がすべてを創造する、と。
共振と共鳴の中で「もの」と「こと」が創られると。
なら神はそこに在るのか。
でもそれは場所ではない。
その音の発信元がそれだ。
なら聖書の言の通りかも。
神が光あれと言ったら、そこにひかりがあった。
まさにまさに。
なら日本が神国なのも頷ける。
日本は歌う国であり言霊の幸はふ国なのだから。
ふむふむ…。
てか、
私の知識など高が知れたもの、
それに誤解や曲解は常のこと、
所詮は言葉遊びに過ぎません。
ご容赦、
ご容赦、