一神教の源はどこに有るのだろう。
その初めは多神教であったと思うのだが。
エジプトやギリシャはそうである。
それに中東やインドそれにシナも。
そも神の物語はそういうものかと。
聖書も神話部はそれと変わらない。
それに神はモーセの問いにIam と答えている。
自分の名をそう言っている。
普通なら固有名詞になるが。
これは私はすべてであると言うことかと。
すべてだから壱ではないし名前もないと。
私は壱を全体と読み替えることもあるが。
にしても名前は他者から付けられるもの。
でも人が神に名を付けるのは不遜である。
だからのIam だろうと。
にしても聖書の特異なところは言葉への思いにあるかと。
そこは私も大いに注目しているが。
そこで日本だがその神を「かみ」と呼ぶ。
かみとは上であり、上にあるものである。
それを「神」と表記。
これは示す偏に申すと記す。
示して申すのである。
聖書は神の力の基はその口から発する言葉だと。
ならその字義はまさにそれを言っている。
しかも神とは一般名詞なのです。
特定はせずすべてに渡るのです。
ここまではその思いは実に合致している。
ここから一神教的になると日本から離れていく。
まあ日本の話ではないし。
それはさておき、
一神教は大方この聖書に始まる。
ユダヤ教・キリスト教それにイスラム教、
これらはそれぞれ聖書を聖典としている。
ユダヤ教は新約を認めていない、とか、
イスラムのメインはクルアーン、とか、
争いの基ともなる違いはあるにしても、
これらはそも兄弟宗教なのです。
ところで、
一神教とはこの三つであり、
私は他にはそれを知らない、
てかまあ知らないだけかも。
・・・・・
聖書(旧約)は、
凡そ3500年前頃から2400年前頃にかけて、
記された文書群でそれらを纏めたものである。
その最初はモーセによって記されたとか。
それは所謂出エジプト直後のことか。
時期的には符合する。
ときにエジプトでは騎士の台頭もあって、
そこに元々力を持っていた神官らもおり、
王権が少しく揺らいでいた。
そこで一神教がつくられた。
王がその手に権力を集中させるため。
その一神教は長くは続かなかったが。
そういう状況であった。
そこでエジプトを出て新天地に向かった人々は、
彼らを纏めるためにもそれを利用したのか、
初めから一神教だったかも知れないが、
我らの神以外に神はないとした。
今の一神教がここに現れる。
思えば一神教と雖も、
個人的には何を神としても問題はない、
それが私だけのことならば。
問題は私の神以外は神ではないと他に強要することです。
それはそれを良しとする人々の間でならいいが。
この手の一神教はゆえ初めから毒を含んでいる。
でもこれはもとより集団を纏めるためのもので、
大いに政治的所為なのです。
そも信仰とは個人的なもの。
それを知っておこう。
・・・・・
個人としての一神教はどうだろう。
前にも言ったが、
言葉を持ったヒトは存在の不可思議に遭遇して、
ときにそこに神を見る、ゆえ神は八百万である。
全体を一つと見ればそれはひとつだが、
それは八百万を一般化することである。
これに個の名を当てれば、
それは一神教になる。
でも私はそれを想像できない。
私が日本人だからか。
でもその発想は分からなくもない。
それは私を特別視するから起きる。
それが私を場から切り離すのです、
自我(意識)の肥大化にともない。
これは言葉の技の大きな一つです。
これがヒトの人間たる所以である。
それがエジプト文明には鮮明に現れている。
それはミイラづくりの文化である。
自我は生とともに顕われ終われば元に返る。
それを生の世界に戻そうとの思いの顕われ。
これは自我肥大化の極致であろう。
だから一神教世界では遺体に拘る。
日本人の感覚とは大いに違います。
そもそれを遺体と言っている。
残された身体であり、遺産と同列なのです。
私の身体であったもので私ではないのです。
それは残された者のよすがではあるが。
私の本体(霊)は既に帰っている。
そういうことです。
でもどう想おうとそこは自由です。
中東でもゾロアスター教では鳥葬が行われていたとも。
また世界では風葬と言うのもある。
また水葬というのもある。
遺体は魂が去った後に礼を持って処理するもの、
というのがむしろ一般的な考えか。
と思うのです。
でも一神教の世界は違うようです。
最後の審判という発想もこの辺にあるのかと。
仏教の地獄極楽もそこから来ているのかも。
でもそれはお釈迦様の教えとは聞かない。
それはあくまで生きてる者への諫めか。
それならそれは方便と言うべきもの。
方便としてはそれはそれなりです。
・・・・・
という訳で、
一神教の大元は聖書なのだが、
その源流はエジプトにあり、
そのエジプトも、
エジプトが人類の始めでもないし、
そのずっと以前から存在しており、
一神教の淵源と言っても、
それがどこにあるかは分からない。
でも分かっていることが一つだけある。
それは言葉である。
これが源であることに違いはなし。
この一神教から生まれたのが、
リベラルであり無神論であり原理主義である。
デカルト曰く、我思う故に我あり。
ニーチェ曰く、神は死んだ。
原理主義は?、ほとんどすべての神をころす。
ということです。
ということでこれは内緒の話だが、
このことがみなに知られれば、
人類は次の世界に行ける。
と私は思っています。
うん!
その初めは多神教であったと思うのだが。
エジプトやギリシャはそうである。
それに中東やインドそれにシナも。
そも神の物語はそういうものかと。
聖書も神話部はそれと変わらない。
それに神はモーセの問いにIam と答えている。
自分の名をそう言っている。
普通なら固有名詞になるが。
これは私はすべてであると言うことかと。
すべてだから壱ではないし名前もないと。
私は壱を全体と読み替えることもあるが。
にしても名前は他者から付けられるもの。
でも人が神に名を付けるのは不遜である。
だからのIam だろうと。
にしても聖書の特異なところは言葉への思いにあるかと。
そこは私も大いに注目しているが。
そこで日本だがその神を「かみ」と呼ぶ。
かみとは上であり、上にあるものである。
それを「神」と表記。
これは示す偏に申すと記す。
示して申すのである。
聖書は神の力の基はその口から発する言葉だと。
ならその字義はまさにそれを言っている。
しかも神とは一般名詞なのです。
特定はせずすべてに渡るのです。
ここまではその思いは実に合致している。
ここから一神教的になると日本から離れていく。
まあ日本の話ではないし。
それはさておき、
一神教は大方この聖書に始まる。
ユダヤ教・キリスト教それにイスラム教、
これらはそれぞれ聖書を聖典としている。
ユダヤ教は新約を認めていない、とか、
イスラムのメインはクルアーン、とか、
争いの基ともなる違いはあるにしても、
これらはそも兄弟宗教なのです。
ところで、
一神教とはこの三つであり、
私は他にはそれを知らない、
てかまあ知らないだけかも。
・・・・・
聖書(旧約)は、
凡そ3500年前頃から2400年前頃にかけて、
記された文書群でそれらを纏めたものである。
その最初はモーセによって記されたとか。
それは所謂出エジプト直後のことか。
時期的には符合する。
ときにエジプトでは騎士の台頭もあって、
そこに元々力を持っていた神官らもおり、
王権が少しく揺らいでいた。
そこで一神教がつくられた。
王がその手に権力を集中させるため。
その一神教は長くは続かなかったが。
そういう状況であった。
そこでエジプトを出て新天地に向かった人々は、
彼らを纏めるためにもそれを利用したのか、
初めから一神教だったかも知れないが、
我らの神以外に神はないとした。
今の一神教がここに現れる。
思えば一神教と雖も、
個人的には何を神としても問題はない、
それが私だけのことならば。
問題は私の神以外は神ではないと他に強要することです。
それはそれを良しとする人々の間でならいいが。
この手の一神教はゆえ初めから毒を含んでいる。
でもこれはもとより集団を纏めるためのもので、
大いに政治的所為なのです。
そも信仰とは個人的なもの。
それを知っておこう。
・・・・・
個人としての一神教はどうだろう。
前にも言ったが、
言葉を持ったヒトは存在の不可思議に遭遇して、
ときにそこに神を見る、ゆえ神は八百万である。
全体を一つと見ればそれはひとつだが、
それは八百万を一般化することである。
これに個の名を当てれば、
それは一神教になる。
でも私はそれを想像できない。
私が日本人だからか。
でもその発想は分からなくもない。
それは私を特別視するから起きる。
それが私を場から切り離すのです、
自我(意識)の肥大化にともない。
これは言葉の技の大きな一つです。
これがヒトの人間たる所以である。
それがエジプト文明には鮮明に現れている。
それはミイラづくりの文化である。
自我は生とともに顕われ終われば元に返る。
それを生の世界に戻そうとの思いの顕われ。
これは自我肥大化の極致であろう。
だから一神教世界では遺体に拘る。
日本人の感覚とは大いに違います。
そもそれを遺体と言っている。
残された身体であり、遺産と同列なのです。
私の身体であったもので私ではないのです。
それは残された者のよすがではあるが。
私の本体(霊)は既に帰っている。
そういうことです。
でもどう想おうとそこは自由です。
中東でもゾロアスター教では鳥葬が行われていたとも。
また世界では風葬と言うのもある。
また水葬というのもある。
遺体は魂が去った後に礼を持って処理するもの、
というのがむしろ一般的な考えか。
と思うのです。
でも一神教の世界は違うようです。
最後の審判という発想もこの辺にあるのかと。
仏教の地獄極楽もそこから来ているのかも。
でもそれはお釈迦様の教えとは聞かない。
それはあくまで生きてる者への諫めか。
それならそれは方便と言うべきもの。
方便としてはそれはそれなりです。
・・・・・
という訳で、
一神教の大元は聖書なのだが、
その源流はエジプトにあり、
そのエジプトも、
エジプトが人類の始めでもないし、
そのずっと以前から存在しており、
一神教の淵源と言っても、
それがどこにあるかは分からない。
でも分かっていることが一つだけある。
それは言葉である。
これが源であることに違いはなし。
この一神教から生まれたのが、
リベラルであり無神論であり原理主義である。
デカルト曰く、我思う故に我あり。
ニーチェ曰く、神は死んだ。
原理主義は?、ほとんどすべての神をころす。
ということです。
ということでこれは内緒の話だが、
このことがみなに知られれば、
人類は次の世界に行ける。
と私は思っています。
うん!