松本清張の小説「点と線」ではない。
「念と占」である。
ちょっと似ている。
内容は無関係なのだが、
でも少しはかすってる、
かな?
・・・・・
言葉の話である。
言葉には音韻と記号がある。
元よりその本貫は音である。
それも単なる音ではなく声である。
全細胞が現実に感応して声として発する。
でも声は長くは留まらない。
それを留めたく記号が作られる。
それを文字という。
本貫が音だから音を写せばいい。
それが当然に主流となっている。
それとは別に実を伝える方途に絵がある。
でもそも音の方が命には響く。
臨終のとき最後まで届いてるのは音である。
絵は生きていてこそ。
それに目を開いていなければ届かない。
実に制約があるのだ。
でも音は24時間一時も塞くことがない。
そこが違うのである。
それにである。
耳の悪い人もいるが、音は響きであるから、
微妙な聞き分けはできなくとも届いている。
身体には届いているのだ。
言葉が音(声)なのも必然なのだ。
そう謂うことだと。
・・・・・
それにしても、
絵から始まる文字(言葉)も必然か。
現実を伝えるにはやはり便利なのだ。
世界には絵文字もいろいろあっただろうが、
今に残っているのは漢字である。
なかなかに面白くも有用なのだ。
シナが発祥だと言われる。
まあそうだろう。
でも大きく育てたのは日本人だろうか。
少なくともシナ人は捨てた、のも同然。
簡体字を見ればそう思わざるを得ない。
余りにも思い入れがなさ過ぎる。
今や日本こそ漢字の国かも。
その証の一つが書道である。
字を芸術として嗜み楽しむ。
それに漢字の元になったとも言われる卜占、
その卜占を今も密かにやっているとも聞く。
さらにである。
近代欧米の概念を漢字に置き換えたのは日本です。
そのお陰で国語でそれらを捉えられるのだ。
その恩恵はシナも大いに受けている。
漢字の国だから当然でしょう。
それが現実です。
にしても彼らには感謝がない。
謝々はどこへ行った。
茂木さんには有ったようだが。
・・・・・
漢字は元々は絵であったという。
絵で意を伝えていたと。
それが音韻である言葉と重なる。
そして絵文字となる。
でも文字は元来が記号です。
結局簡略化されて「点と線」(の組合せ)になる。
それが偏や旁として定着する。
その組合せで文字になるのですが、
組合せを替えれば別の文字となる。
そこに創り手の思いが反映される。
文字の一つひとつに思想があるのです。
更に文字を連ねてそこに深みを入れる。
面白い。
そこには記号を越えた識が現れる。
なおこの「点と線」は小説とは関係ない。
たまたまの語呂合わせです。
ちなみに日本語は実に驚くべき言語です。
基本語彙はそれほど多くはないが、
同じ音で多くの意を伝える、
それも一音一意です。
それを可能にするのが語尾の変化だが、
なにより「てにをは」の存在です。
それらを駆使するのだ。
さらに書き言葉がまた凄い。
表音文字と表意文字を併用して表現する。
だから文字の数が半端なく多い。
漢字かなカナ数字アルファベット他ときに梵字までも。
SNSで使われる絵文字もそうです。
もう際限がない。
そして実際に話すときは、
たぶん脳内では絵的な視覚野も使ってる。
日本語ならではの芸当です。
そう思っている。
・・・・・
本題「念と占」について。
念とは「今」の「心」である。
さりながら今は即ち過去、常に置き去りにされる。
でも生き物(特に動物)は未来に向かうもの。
今つまり念に囚われていては向かえない。
未来はいつも白紙なのだから。
ゆえ他の生き物は今しかなく、
念を持たないのだ。
そしてもっぱらに今を生きる。
過去と未来を包含した野太い今をです。
野太い今をです。
だが人は念を持ってしまった。
だから動きにくいのです。
そこで「占」が必要となった。
即ち未来を仮に設定する。
それが占です。
今もそれは変わらない。
言い方を変えてるだけ、
予定や予測とか言って。
それを知ろう。
「念と占」である。
ちょっと似ている。
内容は無関係なのだが、
でも少しはかすってる、
かな?
・・・・・
言葉の話である。
言葉には音韻と記号がある。
元よりその本貫は音である。
それも単なる音ではなく声である。
全細胞が現実に感応して声として発する。
でも声は長くは留まらない。
それを留めたく記号が作られる。
それを文字という。
本貫が音だから音を写せばいい。
それが当然に主流となっている。
それとは別に実を伝える方途に絵がある。
でもそも音の方が命には響く。
臨終のとき最後まで届いてるのは音である。
絵は生きていてこそ。
それに目を開いていなければ届かない。
実に制約があるのだ。
でも音は24時間一時も塞くことがない。
そこが違うのである。
それにである。
耳の悪い人もいるが、音は響きであるから、
微妙な聞き分けはできなくとも届いている。
身体には届いているのだ。
言葉が音(声)なのも必然なのだ。
そう謂うことだと。
・・・・・
それにしても、
絵から始まる文字(言葉)も必然か。
現実を伝えるにはやはり便利なのだ。
世界には絵文字もいろいろあっただろうが、
今に残っているのは漢字である。
なかなかに面白くも有用なのだ。
シナが発祥だと言われる。
まあそうだろう。
でも大きく育てたのは日本人だろうか。
少なくともシナ人は捨てた、のも同然。
簡体字を見ればそう思わざるを得ない。
余りにも思い入れがなさ過ぎる。
今や日本こそ漢字の国かも。
その証の一つが書道である。
字を芸術として嗜み楽しむ。
それに漢字の元になったとも言われる卜占、
その卜占を今も密かにやっているとも聞く。
さらにである。
近代欧米の概念を漢字に置き換えたのは日本です。
そのお陰で国語でそれらを捉えられるのだ。
その恩恵はシナも大いに受けている。
漢字の国だから当然でしょう。
それが現実です。
にしても彼らには感謝がない。
謝々はどこへ行った。
茂木さんには有ったようだが。
・・・・・
漢字は元々は絵であったという。
絵で意を伝えていたと。
それが音韻である言葉と重なる。
そして絵文字となる。
でも文字は元来が記号です。
結局簡略化されて「点と線」(の組合せ)になる。
それが偏や旁として定着する。
その組合せで文字になるのですが、
組合せを替えれば別の文字となる。
そこに創り手の思いが反映される。
文字の一つひとつに思想があるのです。
更に文字を連ねてそこに深みを入れる。
面白い。
そこには記号を越えた識が現れる。
なおこの「点と線」は小説とは関係ない。
たまたまの語呂合わせです。
ちなみに日本語は実に驚くべき言語です。
基本語彙はそれほど多くはないが、
同じ音で多くの意を伝える、
それも一音一意です。
それを可能にするのが語尾の変化だが、
なにより「てにをは」の存在です。
それらを駆使するのだ。
さらに書き言葉がまた凄い。
表音文字と表意文字を併用して表現する。
だから文字の数が半端なく多い。
漢字かなカナ数字アルファベット他ときに梵字までも。
SNSで使われる絵文字もそうです。
もう際限がない。
そして実際に話すときは、
たぶん脳内では絵的な視覚野も使ってる。
日本語ならではの芸当です。
そう思っている。
・・・・・
本題「念と占」について。
念とは「今」の「心」である。
さりながら今は即ち過去、常に置き去りにされる。
でも生き物(特に動物)は未来に向かうもの。
今つまり念に囚われていては向かえない。
未来はいつも白紙なのだから。
ゆえ他の生き物は今しかなく、
念を持たないのだ。
そしてもっぱらに今を生きる。
過去と未来を包含した野太い今をです。
野太い今をです。
だが人は念を持ってしまった。
だから動きにくいのです。
そこで「占」が必要となった。
即ち未来を仮に設定する。
それが占です。
今もそれは変わらない。
言い方を変えてるだけ、
予定や予測とか言って。
それを知ろう。
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