ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

2021-12-13 07:03:16 | 日記・エッセイ・コラム
前回「念と占」について記したが、
占とは念を持ってしまったが故に、
未来に向き合うには必要不可欠となったもの。
その占とは、
目の前の現象や兆候に対して、
その大元である宇宙の根源的な力にこれを問い、
今後の成り行きや吉凶を予知するものである。
占とは大和言葉で「うらない」と言うが、
これは非科学的とか迷信とかではなく、
むしろ人間存在の核心にあるのです。
・・・・・
ちなみに宇宙の根源的な力を、
その力の大元を日本では神と謂っている。
他の国でも言い方はそれぞれだが、
同様の言葉はあります。
その経緯で言えば神は在るのです。
信じるとか信じないの話ではない。
神は在るのです。
勿論信じないと言う人を否定する気はない。
そこは自由です。
念を持たない生物は、
てか、持続する念を持たないというか、
てか、変化する念しか持たないというか、
そんな生物は、
まんま神の手の中で生きている。
そこからハミ出ることはない。
その場を聖書は楽園という。
でも人間はハミ出てしまった。
だから成り行きを知ろうとする。
それはどうしても気になるからで、
良きにつけ悪しきにつけ。
定まればともかくも心魂が鎮まるのです。
占とはその所作のこと。
でも結果が悪しき場合はどうだろう。
それでも鎮魂になるのか。
それはなるのです。
だから吉が出るまで占い続けるとか、
だから凶の避け方を占うとか、
また凶の先には必ず吉があると思うのも一興。
ともかくも未来に向き合える。
ゆえに鎮魂はなる。
にしても分からぬことを知るとは有り得ない。
当たるも八卦当たらぬも八卦なのです。
つまり見えたことにするのです。
たわいないことならそれでOK。
大ごとならそうはいかない。
命を懸けることになるから、
それもときには多くの命を。
これは一筋縄ではいかない。
だからどうしても頼ることになる。
占の根っこにある神に。
人の意思で決めたのではなく、
神の意思で決められたのだと。
それをとことん信じる。
そして信じて疑わない。
為に祈るのです、
為に祈り続けるのです。
それしかない。
人はそうして生きてきた。
そして今がある。
・・・・・
今や占は迷信等と伴に否定されている。
気休めやお遊びとしては残っているが。
これが大間違いなのだ。
思えば未来が白紙なのは今も変わりません。
人間にとってはですが。
宇宙はその限りでない。
千年後万年後の星の位置は決まっている。
計算すればその位置関係は特定できる。
現代過去未来を包含した絶対的大枠、
そこでは神の意思は決まっている。
人のように短期に存するものは、
どうも白紙のままのようです。
それは昔もそして当然今も。
政治はまさにそこにある。
だから予め定めておき、
その中で人を動かす。
力による独裁も話し合いによる民主も、
ともかくも定めるから動けるのです。
矛盾するようだがそれが現実です。
これは占いそのものではないが、
形を変えた占いの在り方です。
即ち「まつりごと」である。
科学もその類です。
それは自然科学である。
これは自然現象を解き明かすもの。
聖書では神の言葉によって創られるもの、
それが自然の現象です。
それを解き明かすとはまさに神の声を聴くこと。
だから私は科学者を現代の預言者だと謂う。
ただし本物だけだ。
現今はどうもそこが怪しげである。
なぜか偽預言者がもてはやされる。
胡散の臭いが芬々。
・・・・・
例えばこのコロワク騒動に、
例えば気候変動とか脱炭素とかに、
すべからく関与している、
偽預言者らが。
こんなにも地球や宇宙を股にかけた与太話を、
臆面もなく堂々と言えるのです、
参ってしまいます。
でも時が必ず正体を暴くだろう。
それもそれほど時を置かず。
それはさておき、本当の預言者は、
分からないものは分からないとし、
どこまでも現実に寄り添う、
金銭や名誉に拘らず。
このご時世では超希少価値か。
それでも間違いなくいる、
見えないところには。
それを信じてる。