前回「念と占」について記したが、
占とは念を持ってしまったが故に、
未来に向き合うには必要不可欠となったもの。
その占とは、
目の前の現象や兆候に対して、
その大元である宇宙の根源的な力にこれを問い、
今後の成り行きや吉凶を予知するものである。
占とは大和言葉で「うらない」と言うが、
これは非科学的とか迷信とかではなく、
むしろ人間存在の核心にあるのです。
・・・・・
ちなみに宇宙の根源的な力を、
その力の大元を日本では神と謂っている。
他の国でも言い方はそれぞれだが、
同様の言葉はあります。
その経緯で言えば神は在るのです。
信じるとか信じないの話ではない。
神は在るのです。
勿論信じないと言う人を否定する気はない。
そこは自由です。
念を持たない生物は、
てか、持続する念を持たないというか、
てか、変化する念しか持たないというか、
そんな生物は、
まんま神の手の中で生きている。
そこからハミ出ることはない。
その場を聖書は楽園という。
でも人間はハミ出てしまった。
だから成り行きを知ろうとする。
それはどうしても気になるからで、
良きにつけ悪しきにつけ。
定まればともかくも心魂が鎮まるのです。
占とはその所作のこと。
でも結果が悪しき場合はどうだろう。
それでも鎮魂になるのか。
それはなるのです。
だから吉が出るまで占い続けるとか、
だから凶の避け方を占うとか、
また凶の先には必ず吉があると思うのも一興。
ともかくも未来に向き合える。
ゆえに鎮魂はなる。
にしても分からぬことを知るとは有り得ない。
当たるも八卦当たらぬも八卦なのです。
つまり見えたことにするのです。
たわいないことならそれでOK。
大ごとならそうはいかない。
命を懸けることになるから、
それもときには多くの命を。
これは一筋縄ではいかない。
だからどうしても頼ることになる。
占の根っこにある神に。
人の意思で決めたのではなく、
神の意思で決められたのだと。
それをとことん信じる。
そして信じて疑わない。
為に祈るのです、
為に祈り続けるのです。
それしかない。
人はそうして生きてきた。
そして今がある。
・・・・・
今や占は迷信等と伴に否定されている。
気休めやお遊びとしては残っているが。
これが大間違いなのだ。
思えば未来が白紙なのは今も変わりません。
人間にとってはですが。
宇宙はその限りでない。
千年後万年後の星の位置は決まっている。
計算すればその位置関係は特定できる。
現代過去未来を包含した絶対的大枠、
そこでは神の意思は決まっている。
人のように短期に存するものは、
どうも白紙のままのようです。
それは昔もそして当然今も。
政治はまさにそこにある。
だから予め定めておき、
その中で人を動かす。
力による独裁も話し合いによる民主も、
ともかくも定めるから動けるのです。
矛盾するようだがそれが現実です。
これは占いそのものではないが、
形を変えた占いの在り方です。
即ち「まつりごと」である。
科学もその類です。
それは自然科学である。
これは自然現象を解き明かすもの。
聖書では神の言葉によって創られるもの、
それが自然の現象です。
それを解き明かすとはまさに神の声を聴くこと。
だから私は科学者を現代の預言者だと謂う。
ただし本物だけだ。
現今はどうもそこが怪しげである。
なぜか偽預言者がもてはやされる。
胡散の臭いが芬々。
・・・・・
例えばこのコロワク騒動に、
例えば気候変動とか脱炭素とかに、
すべからく関与している、
偽預言者らが。
こんなにも地球や宇宙を股にかけた与太話を、
臆面もなく堂々と言えるのです、
参ってしまいます。
でも時が必ず正体を暴くだろう。
それもそれほど時を置かず。
それはさておき、本当の預言者は、
分からないものは分からないとし、
どこまでも現実に寄り添う、
金銭や名誉に拘らず。
このご時世では超希少価値か。
それでも間違いなくいる、
見えないところには。
それを信じてる。
占とは念を持ってしまったが故に、
未来に向き合うには必要不可欠となったもの。
その占とは、
目の前の現象や兆候に対して、
その大元である宇宙の根源的な力にこれを問い、
今後の成り行きや吉凶を予知するものである。
占とは大和言葉で「うらない」と言うが、
これは非科学的とか迷信とかではなく、
むしろ人間存在の核心にあるのです。
・・・・・
ちなみに宇宙の根源的な力を、
その力の大元を日本では神と謂っている。
他の国でも言い方はそれぞれだが、
同様の言葉はあります。
その経緯で言えば神は在るのです。
信じるとか信じないの話ではない。
神は在るのです。
勿論信じないと言う人を否定する気はない。
そこは自由です。
念を持たない生物は、
てか、持続する念を持たないというか、
てか、変化する念しか持たないというか、
そんな生物は、
まんま神の手の中で生きている。
そこからハミ出ることはない。
その場を聖書は楽園という。
でも人間はハミ出てしまった。
だから成り行きを知ろうとする。
それはどうしても気になるからで、
良きにつけ悪しきにつけ。
定まればともかくも心魂が鎮まるのです。
占とはその所作のこと。
でも結果が悪しき場合はどうだろう。
それでも鎮魂になるのか。
それはなるのです。
だから吉が出るまで占い続けるとか、
だから凶の避け方を占うとか、
また凶の先には必ず吉があると思うのも一興。
ともかくも未来に向き合える。
ゆえに鎮魂はなる。
にしても分からぬことを知るとは有り得ない。
当たるも八卦当たらぬも八卦なのです。
つまり見えたことにするのです。
たわいないことならそれでOK。
大ごとならそうはいかない。
命を懸けることになるから、
それもときには多くの命を。
これは一筋縄ではいかない。
だからどうしても頼ることになる。
占の根っこにある神に。
人の意思で決めたのではなく、
神の意思で決められたのだと。
それをとことん信じる。
そして信じて疑わない。
為に祈るのです、
為に祈り続けるのです。
それしかない。
人はそうして生きてきた。
そして今がある。
・・・・・
今や占は迷信等と伴に否定されている。
気休めやお遊びとしては残っているが。
これが大間違いなのだ。
思えば未来が白紙なのは今も変わりません。
人間にとってはですが。
宇宙はその限りでない。
千年後万年後の星の位置は決まっている。
計算すればその位置関係は特定できる。
現代過去未来を包含した絶対的大枠、
そこでは神の意思は決まっている。
人のように短期に存するものは、
どうも白紙のままのようです。
それは昔もそして当然今も。
政治はまさにそこにある。
だから予め定めておき、
その中で人を動かす。
力による独裁も話し合いによる民主も、
ともかくも定めるから動けるのです。
矛盾するようだがそれが現実です。
これは占いそのものではないが、
形を変えた占いの在り方です。
即ち「まつりごと」である。
科学もその類です。
それは自然科学である。
これは自然現象を解き明かすもの。
聖書では神の言葉によって創られるもの、
それが自然の現象です。
それを解き明かすとはまさに神の声を聴くこと。
だから私は科学者を現代の預言者だと謂う。
ただし本物だけだ。
現今はどうもそこが怪しげである。
なぜか偽預言者がもてはやされる。
胡散の臭いが芬々。
・・・・・
例えばこのコロワク騒動に、
例えば気候変動とか脱炭素とかに、
すべからく関与している、
偽預言者らが。
こんなにも地球や宇宙を股にかけた与太話を、
臆面もなく堂々と言えるのです、
参ってしまいます。
でも時が必ず正体を暴くだろう。
それもそれほど時を置かず。
それはさておき、本当の預言者は、
分からないものは分からないとし、
どこまでも現実に寄り添う、
金銭や名誉に拘らず。
このご時世では超希少価値か。
それでも間違いなくいる、
見えないところには。
それを信じてる。