ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

念と占

2021-12-06 10:01:58 | 日記・エッセイ・コラム
松本清張の小説「点と線」ではない。
「念と占」である。
ちょっと似ている。
内容は無関係なのだが、
でも少しはかすってる、
かな?
・・・・・
言葉の話である。
言葉には音韻と記号がある。
元よりその本貫は音である。
それも単なる音ではなく声である。
全細胞が現実に感応して声として発する。
でも声は長くは留まらない。
それを留めたく記号が作られる。
それを文字という。
本貫が音だから音を写せばいい。
それが当然に主流となっている。
それとは別に実を伝える方途に絵がある。
でもそも音の方が命には響く。
臨終のとき最後まで届いてるのは音である。
絵は生きていてこそ。
それに目を開いていなければ届かない。
実に制約があるのだ。
でも音は24時間一時も塞くことがない。
そこが違うのである。
それにである。
耳の悪い人もいるが、音は響きであるから、
微妙な聞き分けはできなくとも届いている。
身体には届いているのだ。
言葉が音(声)なのも必然なのだ。
そう謂うことだと。
・・・・・
それにしても、
絵から始まる文字(言葉)も必然か。
現実を伝えるにはやはり便利なのだ。
世界には絵文字もいろいろあっただろうが、
今に残っているのは漢字である。
なかなかに面白くも有用なのだ。
シナが発祥だと言われる。
まあそうだろう。
でも大きく育てたのは日本人だろうか。
少なくともシナ人は捨てた、のも同然。
簡体字を見ればそう思わざるを得ない。
余りにも思い入れがなさ過ぎる。
今や日本こそ漢字の国かも。
その証の一つが書道である。
字を芸術として嗜み楽しむ。
それに漢字の元になったとも言われる卜占、
その卜占を今も密かにやっているとも聞く。
さらにである。
近代欧米の概念を漢字に置き換えたのは日本です。
そのお陰で国語でそれらを捉えられるのだ。
その恩恵はシナも大いに受けている。
漢字の国だから当然でしょう。
それが現実です。
にしても彼らには感謝がない。
謝々はどこへ行った。
茂木さんには有ったようだが。
・・・・・
漢字は元々は絵であったという。
絵で意を伝えていたと。
それが音韻である言葉と重なる。
そして絵文字となる。
でも文字は元来が記号です。
結局簡略化されて「点と線」(の組合せ)になる。
それが偏や旁として定着する。
その組合せで文字になるのですが、
組合せを替えれば別の文字となる。
そこに創り手の思いが反映される。
文字の一つひとつに思想があるのです。
更に文字を連ねてそこに深みを入れる。
面白い。
そこには記号を越えた識が現れる。
なおこの「点と線」は小説とは関係ない。
たまたまの語呂合わせです。
ちなみに日本語は実に驚くべき言語です。
基本語彙はそれほど多くはないが、
同じ音で多くの意を伝える、
それも一音一意です。
それを可能にするのが語尾の変化だが、
なにより「てにをは」の存在です。
それらを駆使するのだ。
さらに書き言葉がまた凄い。
表音文字と表意文字を併用して表現する。
だから文字の数が半端なく多い。
漢字かなカナ数字アルファベット他ときに梵字までも。
SNSで使われる絵文字もそうです。
もう際限がない。
そして実際に話すときは、
たぶん脳内では絵的な視覚野も使ってる。
日本語ならではの芸当です。
そう思っている。
・・・・・
本題「念と占」について。
念とは「今」の「心」である。
さりながら今は即ち過去、常に置き去りにされる。
でも生き物(特に動物)は未来に向かうもの。
今つまり念に囚われていては向かえない。
未来はいつも白紙なのだから。
ゆえ他の生き物は今しかなく、
念を持たないのだ。
そしてもっぱらに今を生きる。
過去と未来を包含した野太い今をです。
野太い今をです。
だが人は念を持ってしまった。
だから動きにくいのです。
そこで「占」が必要となった。
即ち未来を仮に設定する。
それが占です。
今もそれは変わらない。
言い方を変えてるだけ、
予定や予測とか言って。
それを知ろう。