ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

「ま」

2021-11-08 10:11:30 | 日記・エッセイ・コラム
また同じことを、と思われるかも。
でも言いたいことは何度でも言う。
楽園の追放である。
追放されたのは人間である。
他の生物は追放されたと聞かない。
いまだ楽園にいる筈。
にもかかわらず一緒にいるではないか。
これはどういうことか。
はて?
・・・・・
これも既に言ってきた。
追放されたのは場ではない、
霊的に追放されたのだと。
だから場としては同じ所にいる。
目に見えるし手で触りもできる。
共に生きているのだ。
では霊的に追放されたとはどういうことか。
それは禁忌と関わる。
当然のことでそれが原因なのだから。
智慧つまり言葉を持ったのだ。
すべては言葉の故です。
言葉は世界に線を引く。
つながっているものに敢えて線を引く。
そして僅かな違いを以って別物とする。
無理に分けるのです。
それを「わかる」という。
それは実際大いなる力となる。
基より少しなら問題はない。
その隙間は僅かである。
それをどんどん引く。
数もであるが更に線も太くなる。
さすれば隙間が大きくなる。
そして終に元を見失う。
それが「間」であり「魔」となる。
そして闇を抱える。
例えば、
白い紙に黒い線を引くとする。
それも無数にである。
さすればである、
最後は真っ黒になる、
が如し。
・・・・・
少し前に電車内で致傷事件があった。
京王線の特急列車でのこと。
乗客が窓からも逃げていた。
犠牲者がいなかったのは幸いであったが。
当人は死刑になりたかったとか。
あの京アニ事件にも似ている。
同じような闇なのか。
事情は違ってもよく似ている。
どちらも、
脳に張り付いた念が離れなかったのだと。
他人への恨みつらみ、
世間への恨みつらみ、
自分への怒りと嫌悪、
その念が。
念とは意識であり、その基は言葉です。
言葉とは世界に線を引くこと。
同じ言葉を何度も繰り返して、
その線が更に太くなっていく。
そして「ま」を埋められなくなる。
言葉が魂を絡めとった状態である。
言葉にはそういう力があるのです。
それにしても、
現代社会は「ま」を埋める力が弱まっている。
大方は何とか埋めている。
歴史・伝統・文化の力で。
それをも壊そうとする力が迫る。
その力はやはり言葉である。
それをポリコレという。
最近これに似たものが話題になった。
レジブクロとか何とか…。
レジブクロは必要なのに。
ポリコレは逆でまったく不要なもの。
だから無くしてほしいのに。
なのにどんどん迫ってくる。
困ったもんだ。
・・・・・
翻って他の生物はどうだろう。
彼らは言葉を持たない。
だからどんなに酷い状況でも文句を言わない。
ただその状況を必死に生きるのみ。
それを貫徹している。
それは彼らの世界が、
その生きる範囲がいくら狭くても、
そこは全世界と繋がっており、
そこは全宇宙と繋がっており、
そこに切れ目はなく、
そこに「ま」がない。
闇がないのです。
彼らはいつも全き世界・全き宇宙を生きる。
神の手の中でまんまに。
神の光の中でまんまに。
ここに人間との違いはあきらか。
追放の意味もあきらか。
新約聖書では、
終わりのときにイエスが再臨すると、
光の雲に乗って人々を救済するため。
ときに人間は覚醒するのか。
言葉を止揚して。